色気を醸し出すアクティブなパイロットシャツ。どんなシーンでもストレスゼロで過ごせるデッコーロウォモの魅力
STORY Vol.12 – SIROCO 氏(フラメンコダンサー)
decollouomo(デッコーロウォモ)のシャツは、生徒さん達にレッスンする時や自分が練習する時に着る練習着として、プライベートの時の私服として着ています。どれも好みのカラーで、デザインやフィットがすごく気に入っているので、よく着ていますね。
decollouomo(デッコーロウォモ)のシャツは、デザインが面白い。シグニチャーモデルのパイロットシャツは、両胸にポケットがあったり、袖をロールアップしてベルトでとめられるので使いやすいですし、何よりも、体にフィットして綺麗にみせてくれる男らしいシルエットが良いですね。レッスンの生徒さん達は30〜50代の女性が多いのですが、皆さんからも「パイロットシャツ格好良いね」「お洒落だね」という声をいただけているので嬉しいです。
踊っている時に普通のシャツを着ていると、肩や肘が引っかかって窮屈に感じたり、胸を張ったりすると破けてしまったりすることが多いんです。その点、decollouomo(デッコーロウォモ)が開発されたconcorde(コンコルド)素材は、柔軟性がとても高いのでそういうことが一切なく、おかげでストレスを感じずに踊りに集中できています。ドライタッチで滑らかな肌触りが良かったり、乾くスピードが速かったり、繰り返し洗濯して着続けても型崩れしなかったり。外見は色気があって綺麗なのに、機能性と利便性が高いので、スポーツウェアのような感覚でいつも快適に過ごせています。どんなシーンでも利用しやすくて、面白いシャツだなぁと思いますね。踊る時以外の私服はadidas(アディダス)ばかり着ているのですが、decollouomo(デッコーロウォモ)のシャツも、そういうスポーツウェアブランドと変わらないアクティブな感覚で、デイリーウェアとしていつも着ています。
生き甲斐を失って、悩んでいた自分を救ってくれたダンス
幼少期から体を動かすことが好きなスポーツ少年で、野球や水泳、バスケットボールをやっていました。そんな生活を送っていた中で、中学生の時に、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ダンス甲子園」を観て、衝撃を受けたんです。ヒップホップが日本に入ってきた頃で、ダンス甲子園に出演していたダンサー達の踊りが、中学生の僕にはとても格好良く映った。それで、早速ラジカセを持って近所のガソリンスタンドで踊り始めたのが、ダンスを始めたきっかけです。
それからは、ヒップホップダンスやブレイクダンスにハマって、バスケットボールと一緒に続けていました。中学を卒業して、京都のバスケットボールの強豪校へ入学し、地元の先輩を頼って入部しました。そうしたら、入部してすぐにその先輩が僕のことをいじめだしたんです。。昔からの仲なんですけどね。。レギュラーにもなれなくて、自分の舎弟みたいのが僕しかいなかったので、その先輩もストレスが溜まっていたんでしょうね。楽しみにしていた高校生活が、始まりから最悪の生活になってしまったんです。それから学校が面白くなくなって、大好きなバスケットボールも諦めて悩んでいた時に、唯一自分の中に残っていたのがダンスでした。ダンスは人に殴られないし、踊りたくなければ踊らなければいい。自分のタイミングでやることができる。また、ダンスを練習していた場所には20代半ばの先輩たちが多く集まっていて、一回りも下の僕はもちろん最年少。その先輩たちはみんな優しくて、よく可愛がってくれたので居心地も良かったんです。ダンスというものが、生き甲斐を失って悩んでいた自分を救ってくれた。人に光を与えてくれるものなんだなと実感して、ダンスにどんどんハマっていきました。
16歳になった頃には、アルバイトでヒップホップダンスの先生をやるようにまでなっていました。それから高校を何とか卒業して、ダンスの先生を続けながら生活していたのですが、徐々に「なんで俺はヒップホップなんだろう?」と考えるようになっていました。この先40歳になった時に、自分がヒップホッパーというのが想像できなかったんです。自分にはどのスタイルが合っているんだろう?と、モダンダンスやコンテンポラリーダンスなど、他のジャンルのダンスを模索しはじめました。
その延長上で、フラメンコをやっていた方から「好きかわからないけど、よかったら観てみたら?」と、当時スペインのスーパースターだったJoaquín Cortés(ホアキン・コルテス)というフラメンコ・ダンサーの映像を観せてくれたんです。それは、北ガリシアの男を演ずるファルーカという曲を踊っているもので、スペイン映画界の巨匠カルロス・サウラ監督の「フラメンコ」というドキュメンタリー映画でした。上半身裸で情熱的に踊っているホアキン・コルテスを観て、「何じゃこれ!!」と衝撃が走リましたね。そして、フラメンコの魂の奥底から響く歌声、超絶的技巧のギター演奏、独特なリズムを刻む手拍子と足踏み。その迫力ある世界にすっかり魅せられてしまった僕は、「これやるわ!!」と決めて、すぐにフラメンコの本場スペインに行くことを決意したんです。しかし、それからが長かった。。
洞穴生活から始まったクレイジージャーニー
はじめは、アンダルシア州のグラナダという街に行きました。アラビアの香りが漂うアルハンブラ宮殿があって、フラメンコの聖地サクロモンテの丘があって、ちょっとアンティークな街。まずは住む家を見つけるために、街に出て不動産屋を探しまわっていました。しかし、スペイン語が全く話せないから誰も相手にしてくれない。「ありがとう」と「はい、いいえ」しか言えなかった。「君は一体どこから来たんだ?何言ってるのかわからない。はいはい。。」みたいな対応で冷たくあしらわれて。そんな調子で一週間くらい街を彷徨っていました。
毎日同じカフェで休憩をとっていたのですが、ある日いつもと同じように休憩していると、イギリス人のおじさんが英語で話しかけてきた。「お前は一体何をしているんだ?」と。僕は英語も全然話せなかったのですが、「ハウス!!ウォッチング ホーム!!」って必死に伝えたわけですよ。そうしたら、おじさんが何となく気づいてくれて、「わかった。今から用事があるから、夕方5時にまたここに来い!」みたいなことを言って去っていきました。約束の時間にカフェに戻ってみたら、さっきのおじさんが来て、「俺についてこい!!」と言って店を出て歩き始めた。しかし、いつまで歩いても何処にも着かないんですよ。どんどん都会から離れていくから心配になって「どこ行くの?」って聞いても、「いいから黙ってついてこい!!」って言うんですよ。このスペインが生まれて初めての海外だったので護身用のナイフを腹に隠していたのですが、いつ何があるかわからないからとそれに手をかけながら慎重に歩いてましたね。
それから30〜40分くらい歩いて、やっと辿り着いたのはサクロモンテの丘でした。その丘には、ロマ族というジプシーたちが暮らしていたクエバという洞窟の住居跡があって、穴がいっぱい空いているんです。今では観光地として綺麗に整備されていて、下の洞窟内ではフラメンコ・ショーをやっているんですけど、丘の上の方はスラム街でヒッピーたちが棲みつく無法地帯になっているんです。その無法地帯に連れて行かれて、鎖と南京錠で閉ざされた鉄の扉を開けて「ここが今日からお前の家だ!!」って。「えぇっ!?ここに住むの!?」っていう何にもない洞穴でした。。
「今日はもう遅いからここで寝ろ。これから歓迎会をしてやる。」と、まわりのヒッピーたちを集めて宴会がはじまリました。バーベキューをしてくれたんですが、何を食べさせられているのかもわからないわけですよ。「いつ襲われるかわからない。。こいつら大丈夫かな。。」と、僕は腹に隠した護身用のナイフに手をかけながら一晩中寝れずにソワソワしていました。それから僕の洞穴生活が始まって、4ヶ月間そこで生活しましたね。水は公園の水道からタンクに汲んで、腹が減ったら火を焚いて、風呂と洗濯は川で洗って、トイレは外で。キャンプどころではなく、毎日がサバイバルでした。でも、見ず知らずの僕に住む場所を用意してくれて、周りのみんなも良くしてくれて、本当に有難かったですね。
スペイン・フラメンコ界の皇帝Farruquito(ファルキート)との出会い
洞穴生活に慣れてきた頃、周りのみんなに「この街で一番踊れるダンサーは誰?」と聞いて紹介してもらったのが、僕の名付け親となるLuis de Luis(ルイス・デ・ルイス)というフラメンコ・ダンサー。フラメンコを習うために彼に師事するのですが、いくら教わっても全然できない。。ダンスには自信があったのですが、フラメンコはハードルが高かったんですよね。本当に難しかった。他のジャンルのダンスと違って、まず曲調によってさまざまに変化するリズムが難しい。そして、そのリズムを目に見えないレベルのスピードで足で踏むという難しさ。どんなに回れて、どんなに表現力が身についても、足ができない。何年やったらそんなに早く踏めるのっていう感じでしたね。
習い始めてから2年目になったある日、約束の時間より前にスタジオに入ったら、いつも遅刻してくる先生が珍しく先にいてテレビを観ていた。何を観ているのか聞いてみたら、フラメンコ界の皇帝といわれているFarruquito(ファルキート)というフラメンコ・ダンサーの映像でした。一緒にそれを観てみると、ファルキートの目力に一瞬で心を奪われました。神秘的で、何とも言い難い、魔物のような魅力があったんです。その日からずっとファルキートのことが頭から片時も離れなくなって、「ファルキートにフラメンコを習いたい!!彼がいるセビリアに引っ越そうと思う。」と先生に打ち明けたんです。そうしたら、先生が「行って来い!!」と快く送り出してくれて、セビリアに引っ越すことにしました。セビリアは大阪くらいの大きさの街なんですが、ダンススタジオに片っ端から聞き回って、なんとか皇帝を見つけることができました。そうして、”皇帝”Farruquito(ファルキート)や“貴公子”Juan de Juan(ファン・デ・ファン)と出会うことができ、日本とスペインを行き来しながら約7年間、彼らから沢山のフラメンコを学びました。
26歳になった頃には、日本の拠点を地元京都から東京に移して活動していました。その2年後には、日本のコンクールで優勝することができて、やっと落ち着いてきましたね。それからは仕事も徐々に増えてきて、結婚もして、順風満帆な人生になってきた。舞台・ライブ経験を積み重ねて、少しずつ若手として頭角を現しながら、毎年のようにツアーをやるようにまでなっていきました。しかし、そんな同じルーティンで1年があっという間に過ぎていくのが嫌で、新しいことを模索していたんです。
そんな時に、日本のフラメンコギター奏者である沖仁さんから連絡があった。彼は、スペインの3大フラメンコギターコンクールの一つである「ムルシア“ニーニョ・リカルド”フラメンコギター国際コンクール」で、日本人で初めて優勝したギターリスト。僕が20歳でフラメンコを始めた時に、そのコンクールで優勝した時の模様がTV情熱大陸で放映されていて、当時その特集を観ていた僕は、彼に憧れを抱いていました。いつか一緒にやりたいなと思って今まで何回もオファーしていたのですが、全て断られていた。そんな中での突然のオファーでした。以前、友人のコンサートに参加してパルマ(手拍子)を担当したことがあったのですが、彼はそのコンサートを観にきていて、その時の僕のリズムが良かったと覚えてくれていたそうです。
オファー内容は、大阪と東京で開催される情熱大陸のイベントで、パルマと踊りで参加してくれないか?ということだった。そんな流れで、「情熱大陸 SPECIAL LIVE SUMMER TIME BONANZA 2015」で沖仁さんと待望の共演を果たし、1万五千人の観客の前でフラメンコを披露しました。この出会いをきっかけに、彼のコンサートツアーやCDの収録にも参加させてもらって、一緒に仕事をするようになっていきました。
決意した本場スペインへの挑戦!!そして、日本人男性舞踊手初の快挙となる国際コンクール優勝へ
ある時のツアーの打ち上げで、沖仁さんが所属している事務所の社長さんが話しかけてくれた。その中で、沖仁さんとのエピソードを話してくれたんです。駆け出しの若い頃の苦労話や、スペインの国際コンクールへ挑戦した時の話、そして、どのようにして優勝するまでに至ったのか。スペインの国際コンクールは、大きなプレッシャーと恐怖と戦いながらも、何とか今の状況を打破したくて、覚悟を決めての挑戦だったそうです。「人の心を打つのは技術でもなく、形でもない。心に響くものが伝わるんだよ。」と教えてくれました。
そんな話を聞いてから、スペインの国際コンクールの事がずっと頭に残っていました。沖仁さんと共に仕事をしていく中で、彼から沢山の影響を受けていたこともあって、本場スペインへの挑戦を思い描くようになっていきました。うちの両親もそんな僕の心境に気がついていて、頑張って仕事をしているのはいいけど、なんか楽しそうじゃないなあと感じていたようです。父親にも「スペインの国際コンクールでも挑戦してきたらどうだ」と言われて、真剣に考えるようになった。当時35歳。国際コンクールに出るとしたらトレーニングをしなくてはいけない。40歳までのあと5年間だったら、タバコ吸わない、酒飲まない、毎日走ってトレーニングしろと言われてもできるかもしれない。「よし!!5年間だけ真剣に頑張ってみよう」と、スペインの国際コンクールに挑戦することを決めました。
そう決めて挑戦したのが、フラメンコダンサーとして15年目となる去年2017年。
スペインロンダ県で開催されている国際コンクール『第23回アニージャ・ラ・ヒターナ・デ・ロンダ』に出場しました。グラデュエーターという映画を観て、ラッセル・クロウが演じる主人公マキシマス・デシマス・メリディアスをずっとイメージしていました。腐ってもプロでやっているのだから、観客にこの想いだけでも伝わるだろうと。1度目の挑戦でダメだったとしても、同じコンクールに毎年挑戦し続けて少しずつでも応援してくれるファンが増えていけば、いつかきっと願いは叶うはず。観客が湧いて「SIROCO!!」っていう状況になれば、審査員がたとえどう思ったとしても賞を獲らせざるおえないだろうと。
そう思い描いて必死に踊った結果、観客が「ワァッー!!」と湧いて、スタンディングオベーションになった。一体何が起こっているのかわからない。。僕は外国人がコンクールに挑戦するということに敬意を称して、観客みんながそうしてくれたのだと思ったのですが、スペイン人の他の出演者たちは、普通スタンディングオベーションなんかならないぞと。観客はみんなフラメンコが好きな人たちだから偽りじゃない、お前の踊りが良かったから純粋にそうなったんだと言ってくれました。そうして2017年の初挑戦で優勝することができました。それからは、今までできなかったこと、つながらなかったことが少しずつ形になるようになってきて、そういうことを楽しく思ってやっています。
フラメンコの文化を通して、次世代を担う若者たちが光輝くように。
SIROCOという名前の由来。サクロモンテの丘の洞穴生活でルイス・デ・ルイスに師事した時に、「お前名前は?」と聞かれて「ヒロトです」と答えると、「イロト」って言うんです。ヒロトだと何度言っても、紙にHIROTOと書いても「イロト」って言うんですよ。。hを発音しないんです。「イロトは嫌だ。」って言い合いしているうちに、「わかった。スペイン語でお前の名前に似たような言葉がある。俺がお前にあだ名をつけてやる。」と言ってきたんです。スペインが誇る孤高の天才フラメンコ・ギタリストでPaco De Lucia(パコ・デ・ルシア)という有名人がいるんですが、彼のSiroco(シロコ)というタイトルのCDを持ってきて、「お前は今日からSirocoだ!!」って。それは光栄だなと思って、「ありがとうございます!!」と素直に受け入れました。
Sirocoという意味は、初夏にアフリカ大陸から地中海を越えてヨーロッパに吹く暑い熱風のこと。サハラ砂漠を起源とする風で、北アフリカでは乾燥していますが地中海を越えるために高温湿潤風となって、時に砂嵐を伴うほどの偏西風。それをSirocoって言うんです。そう名付けてもらってから名前の通りSirocoのようになろうと決めて、旋風を巻き起こしながらここまでやってきたっていう感じですね。
フラメンコのように歴史がある文化は、どんどん放射状に広がっていくんですよね。踊りだけをやっていれば良いのではなく、歌、ギター、歴史まで、すべてを含めて芸術なんです。そして、何よりもリアリティーが大切です。現代はインターネットがどんどん進んで色々な情報が簡単に入るようになりましたけど、やっぱりリアリティーがない。僕はスペインに行って、色々な人と出会って多くを学び、色々な経験をしてここまでやってきました。そのリアリティーある魅力をお客さんに提供する。
でも、僕は自分自身を決してアーティストとは思っていない。あくまでただのダンサーです。例えば、登山家に「何で山に登るの?」と聞くと、「それは目の前に山があるから。」って答えるみたいに、僕はただ踊りたいから踊る。他にやりたいことはありません、ただ踊りたいだけです。これからも変わらずに、純粋にフラメンコに接してやっていけたらいいなと思っています。そして、自分が今まで培ってきたことを、少しでも、次世代の人たちに伝えていきたいですね。フラメンコという文化はとても格好良いものなので、この文化が日本にもあるという状態を残していけるように貢献していきたいと思っています。
踊りは最高ですよ。人に光を与えるものだから。