釣り人語源考 サメとコチ(後編)
前編のあらすじ・・・サメの語源もコチの語源も、なにかおかしい…
サメは万葉仮名では「佐米」と書かれ、藤原京跡や平城京跡から出土した木簡にも「佐米」と書かれていた。
木簡には「参河国(三河のこと)、佐米楚割(すはやり、楚(すわえ)のように細く割ったものという意、”すわわり”の転。魚肉を細長く裂いて干したもので、削って食用とする。)」とある。
広く食用にされる「アブラツノザメ」は元々「アブラザメ」と呼ばれて現在でもその名で流通している。
やや冷たい海を好むので東北地方や北海道が産地とされている。
延縄漁で捕獲されたアブラザメは、漁港の浜上げで直ぐに皮を剝き頭と内臓を取って「棒ザメ」と加工され関東地方に出荷される。
特に栃木県では「さがんぼう」と呼んで珍重する。語源は「ツララのように軒から下がるから」といわれるが詳しくは不明だそう。
う~んなるほど、食用種のサメは、生肉としても干し物でも、加工される時は「細長く」割るのが作法というか伝統的な手法のようだ。
さて更にサメの調査を進めよう。
『出雲風土記』(733年 神宅臣金太理)の島根郡の記述のところに、外海と内海で獲れる魚の名前を列挙している。
外海は日本海側で、内海は中海であるが、中海は当時海水準が高かったので「飫宇の入海」と呼ばれる海の湾で、境市と米子市付近で2つの水道となって日本海とつながり、弓ヶ浜は「夜見嶋」と呼ばれていた。
飫宇の入海は、日本海より若干海水塩分濃度が薄い湾奥の汽水域で、内海の汽水に対応した生物が主に生息していたと思われる。
「およそ北海で捕れるものは、マグロ類・朝鮐・沙魚・イカ・タコ・アワビ・サザエ・ハマグリ・ウニ・ヒトデ類・ニガニシ・カキ・カメノテ・カガミガイ・ホンダワラ・ミル・ムラサキノリ・テングサなど、とても種類が多く名を全て挙げられない。」
「およそ南の入海にいるものは、イルカ・和爾・ボラ・スズキ・コノシロ・チヌ・シロウオ・ナマコ・エビ・ミルなど、いたって多くて名を全部は挙げられない。」
また秋鹿(あいか)郡の条にも外海と内海の海産物が記載されている。
北海は日本海で、内海とは宍道湖である。
宍道湖は、奈良時代ではまだ斐伊川は「神門水海」へ流入し、また松江市付近で飫宇の入海とつながり海水が出入りしていて、塩分濃度がかなり薄いが淡水ではない「汽水湖」であったと科学的に推察されている。
「南は入海である。春はボラ・スズキ・チヌ・エビなど大小様々な魚がいる。…
…およそ北の海にあるものは、鮐・沙魚・サバ・イカ・アワビ・サザエ・イガイ・ハマグリ・ヒトデ類・ニシ・カメノテ・カキ・ホンダワラ・ミル・ムラサキノリ・テングサ。」
この海産物の中で注目すべき魚名を詳しく解説してみる。
「鮐」は研究者で意見が分かれている。
フグであるとする説とサメまたはカワハギとする説だ。根拠としては皮を利用するかららしい。
”鮐”という漢字は古代中国大陸ではフグを意味する。『新漢和辞典』によると「鮐背(タイハイ)」とは年を取ってフグのような模様のシミが広がった老人のことを言う。
しかし平安時代の日本語では、『本草和名』(918年 深根輔仁)や『倭名類聚抄』(931∼938年 源順)に「布久(フク)」または「布久閉(フクベ)」と記述はあるが「鮐」は使用していない。
出雲風土記では「朝鮐」と「鮐」と二つの種類を述べているのも注目すべき点だ。
「鮐・沙魚・和爾」とそれぞれ書き分けているのに、全てサメだとするのはおかしいのではないか。
『延喜式』(927年 藤原時平・忠平ら編)では「鮐皮」の記述があり、但馬・因幡・伯耆・出雲の山陰道の国から皮を貢納している。
皮を刀剣に利用するのはサメではなくエイであるので、「鮐」はツカエイの代替魚エイのことではないだろうか。
更に、『万葉集註釈』巻第二の『壱岐国風土記』逸文の鯨伏(いさふし)の郷の由来に、
「昔者 鮐鰐追鯨 鯨走來隱伏 故云 鯨伏 鰐並鯨 並化為石 相去一里 昔者俗云鯨為 伊佐譯注 鮐 原為海魚 亦有年老之意 此以鮐鰐引作大鰐也」とある。
「 鮐鰐」と続けて「大きな鰐」としクジラを追っかけたとされる。フグは有り得ないしサメもカワハギもおかしい。鮐はエイしかない。
「エイワニ」は巨大種であるノコギリエイか、頭が平たく星模様のあるジンベイザメだろうか。
そして代用の皮を利用する「カスザメ・コロザメ」「ウチワザメ」「シノノメサカタザメ」の類を「鮐」と呼んだのだろう。
おそらく朝鮐は「朝=東雲」なのでシノノメサカタザメだろうと思う。
ちなみにエイの総排出腔の形が人間の女性器に似ているために「傾城魚」の別名がある。
傾城とは”あまりにも美しく国を滅ぼすほどに権力者に寵愛された女性”で、猛毒の棘を持つことで命を落とす危険性も意味している。
「胎」は子宮をさすので、たぶん「鮐」とは”女性器を持つ魚”と解釈されたのではないか。
「沙魚」は島根郡と秋鹿郡の両方ともに島根半島日本海側で捕獲される海産物の魚名だ。
支那大陸では、元々沙魚や鯊とは「すなふき」として、ハゼ類や砂地に生息する魚類を指していた。
しかし後になってサメにもこの字を当てるようになった。
なぜ支那大陸では後に沙魚がサメになったのかといえば、「サメの皮が細かい砂のような粒子を持つから」と中華帝国時代の辞書で説明されている。
『大和本草』(1708年・貝原益軒)の「フカ」の項目には、「フカ 其類多シ 凡フカノ類皆アギノ下ニ口アリテ其皮ニ”サメ”アリ」と記述があり、「フカの皮には”サメ”がある。」という説明がなされている。
おそらく「目」とは表皮の楯鱗を指していて、「細かい粒子=沙目」こそがサメの語源であろうと思われる。
刀剣に使用される硬くて丈夫な「エイ革」には使用できない、細かくて絹のように柔らかい皮…沙目を持ったフカの類を、徐々に「さめ」と称していったのではないだろうか。
出雲風土記に記述される「沙魚」は、年代から新しい意味の方を採用していておそらくサメだ。
古代の兵の盾は、木で板を作って表にサメの皮を貼り付けて”楯”に作成されたと古書にある。
高級な外国産ツカエイの皮やカスザメ類は刀剣の柄に使ったが、楯には入手が容易な普通のサメの皮を使ったのだろう。
それで「楯鱗」と名付けられたわけだ。
まとめると、古くは「フカ」に「エイ」と呼ばれた軟骨魚類だったが、皮が利用できる泳ぐものを「沙魚」、その他食用を「フカ」、底生で皮歯があるものを「鮐」、食用を「エイ」と変化したと思われる。
では「和爾」は何物だろうか…筆者は別のある生物を候補として考えている。
そして「ふか」の語源も謎だ。…別の機会で探っていこう。
しかしなぜ「狭目」と新井白石は書いたのであろうか。
東雅は「或る人曰く」と昔のことの伝聞を記述するスタイルとなっている。
推理した結果、古い時代にサメとコチとを取り違えて伝承されたのではないかと筆者は考える。
コチは現代では非常に美味しい高級食用魚ではあるが、江戸時代まで「食べてはいけない」忌避される魚であった。
『大和本草』には、「性好からず、人を益するなし、或は曰はく、蛆化してコチになるもの稀にあり」とウジからコチに変化するとか酷い扱いの言い伝えを引用し、また『本朝食鑑』(1697年 人見必大)にはコチを食べた妊婦が人事不省(じんじふせい・昏睡状態に陥り意識不明になること)になった逸話を紹介している。
なぜ食用を避ける魚とされたかというと、その理由は「”目が狭い”ので食べると目が悪くなる。」と古い言い伝えがあるからだろう。
『魚貝能毒品物図考』(1849年 青苔園)や『和歌食物本草』(1630~1694年重版)には「コチを食べると目を患う。」と述べられている。
近年になるまで各地の漁村の漁師たちにも「目が悪くなる」としてコチを忌避する風習があった。
マゴチのハート型やトカゲゴチの樹木状の眼の虹彩皮膜を見た古代の日本人は、とにかくビビったのだろう…これはもう仕方ない。旨いのにね。
平安時代に編纂された『延喜式』には、「許都魚皮」として山陽道の備前・備中・備後の3国で貢納せよと記述されている。
「こつうを」とは間違いなくコチのことだ。
しかしながら『日本魚名の研究』(1959年 渋沢敬三)では許都魚は皮を利用するのでサメであると推察している。
これは明らかに間違いだ。
いくらなんでも瀬戸内海の岡山県南部と広島県備後地方で、皮を効率よく利用可能な大型のサメが捕獲できないし、そもそも大型サメは生息していない。
更に同じ延喜式の肥後国の中男作物に「鮫楚割」と記述されている。
『日本魚名集覧』(1958年 渋沢)の「エドアブラザメ」の項で「備後鞆ではこれを”コツウヲ”と呼ぶ」と記している。
エドアブラザメは深海のサメで食用ではない。
たぶん間違えてアブラツノザメのことだろうと思われるが、もちろん瀬戸内海では冷水を好むアブラツノザメは生息しない。
備後ではアブラツノザメは食べないしそのような地方名は存在しない。
渋沢はたぶん『本草綱目啓蒙』(享和3年 1803年 小野蘭山)の記述を引用していて、「備後鞆浦に”許都宇乎”あり。是は”許都宇”のことで色は黒と白、口はアゴの下にあり、長さは小さきものは四五寸、大きなものは二丈余り。尾は燕尾のごとし。是は”燕尾鯊”に当たるものであろう。」と記述しているのを参照し、さらに『本草薬名備考和訓鈔』(文化4年 1807年 錦小路嶧山)の「燕尾鯊は俗に”左賀菩宇”とよぶものなり。」を見たのであろう。
「さがぼう」は福島県・栃木県の山間部でのアブラツノザメの呼び名で、むき身の状態で産地の青森県や宮城県から送られてくる。
「燕尾鯊」はオナガザメやニタリのことだろう。
「こつう」というサメはよく分からないが、アオザメの地方名に「カツザメ・カツオザメ」があり少し似ている。
なぜか新井白石も小野蘭山も渋沢敬三もコチとサメを間違えている。
なにか理由があるはずだ。
古文書の記述をよく考えると、とても古い時代ではコチを「さめ(狭目)」と呼んでいたのではないだろうか。
あの「ハートや樹木型の眼」こそコチ類の見分け方、かつ「食べては目が悪くなる」言い伝えの根拠なのだ。
コチの腹の皮はフラットフィッシュであるので海底との接触に非常に強く頑丈だ。
こちらのコチの方が本家本元の「狭目皮」として日用品の魚皮として革製品に利用されたのではないか。
かなりややこしい話ではあるが…
律令制が徐々に整う奈良時代、「ふか」と呼ばれた軟骨魚類が徐々に「さめ」という呼称に置き換わってきた。
そのため元々「さめ」と呼ばれ、食べると目が悪くなるとされた魚を、都の役人が「笏に似ているから”コツ”(許都)」と改名し、全国共通として皮を税とし納めさせた。
それが平安時代を過ぎると、すでに謂れが分からなくなってしまったというわけだ。
古文書にはサメの記述に「コチに似て・・・」とよく出てきて、底生のサメとコチを同類のように扱っているような印象がある。
様々な文献残されたサメの矛盾する謎と、コチの言い伝え。
これらコチとサメの謎を紐解いて、ひとつのストーリーとなったと思うが、皆さんはどう思われるだろうか。
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