釣り人語源考 サカタザメ
エイのグループである「サカタザメ」は漢字で書くと「坂田鮫」である。
この「坂田」という名前の由来は分かっていない。
このサカタザメを色々調査して、語源の謎を解いていこう。
さて地方名を調べてみると、かなりたくさんの別名を持つエイであることがわかる。
まず標準和名の元となった「サカタザメ」は大阪近郊から瀬戸内を中心とした西日本に広がる。
より古いと思われる「サカタブカ」「サカタエイ」「サカタ」などは紀伊半島に見られる。
しかし全く違う系統の名前も各地に広がっている。
「カイメ」が九州北部の福岡や長崎。
「カアメ」「カーメ」「カーメン」が山口県の下関から小野田、宇部に。
「ケイメ」「ケイメン」が有明海や熊本、飛んで壱岐。
「キャアメ」「キャアメンチョ」が対馬や五島列島、糸島周辺の分布である。
実はこの「カイメ」という名前は古文書にも登場する。
『大和本草』の『諸品図』に「カイメ」の名前で図で記載されている。
「カイメ モダマ。ツノジの類。 形は甚だコチに似たり。
味はコチに似ていず、モダマに似ている。
薄く切ってよく煮て、酢味噌にて食う。」
ほとんどの古文書ではモダマは「ドチザメ」のことでツノジは「アブラツノザメ」の事である。しかし食用のサメの数種にわたりモダマと称されるし、ツノジもまた別のサメが含まれる。
この「カイメ」の由来は何だろうか。
実はもっと地方名を調べると正体が分かってくる。
新潟県では「イハイザメ」(位牌鮫)、「トウバザメ」(塔婆鮫)。
東京や関東周辺でも「トウバ」。
神奈川県藤沢「ホトケサン」。
静岡県では下田で「シチホンボトケ」、伊豆で「イタボトケ」や「イシボトケ」となっている。
もうお分かりのように、お墓の後ろに立てる「卒塔婆」の形とサカタザメの形が似ているからの命名だ。
地方名から考察すると、「カイメ」はおそらく「戒名」が訛ってしまったものだろう。昔は卒塔婆を「戒名板」とか呼んでいたのかもしれない。
別系統の地方名はまだまだある。
富山では「テンガイザメ」「テンガイ」と呼ばれる。
「天蓋」とは仏教の寺院で仏像などの上に飾る「傘」の事である。
元々はインドで王侯貴族が使う豪華な日傘で、大変豪華な装飾が施されていて大型であるので開閉は出来なかった。
鎌倉時代から改良が始まり、江戸時代になると横棒・ろくろ・はじき、といった傘の機構が完成して「和傘」となる。
傘を閉じた形状が「細長い三角形」で、サカタザメの形状に似ているようだ。
また同じ富山に「ハシラカクシ」がある。
「柱隠し」とは床の間の普通の柱に取り付ける飾りで、普段は殺風景な部屋だけど、急遽大事な来客だったりお茶会やらお見合いやらで急いで小綺麗にしたい場合に使う江戸時代の便利グッズだ。
さてサカタザメの地方名で一大グループに属するものが全国多数で存在する。
「スキザメ」(犂鮫)が三重県伊勢、志摩。
「スキ」は和歌山県新宮、太地、鳥取、島根。
「スキサキ」「スキノサキ」大阪、兵庫、島根、愛媛、鹿児島。
これらは「犂」が関係している名前だ。
農耕で用いられる「犂」とは、牛や馬など農業用に飼育調教された家畜を使役して、鉄で作られた耕土を掘り進む部品と木製の保持する機能を持つ部品で構成された大きな農具を牽引することによって、人力よりもはるかに効率よく田畑を耕起できるというものだ。
犂の構造は、牛馬からの縄を取り付ける柄と本体、金属製の犂先とその保持をする部品、
耕起する深さなどを調整する角度調整用のネジ部品などで出来ていて、なかなか複雑な道具である。
「スキザメ」「スキサキ」などは、この「犂」の金属部分の形状がサカタザメにそっくりだということでの命名だ。
一方、同じ農具として「鋤」というのも存在する。
鋤は、手と足の力を利用して、人力で土を掘り起こす農具。幅の広い刃に、まっすぐな柄をつけたものだ。
種類によって、金 鋤・風呂 鋤・江州 鋤などがある。
犂と鋤は訓読みが同じであるので、話の中で区別するときは犂のほうは「からすき」(唐犂)と呼ぶことが多い。
ついでに「鍬」について解説すると、鍬は上から打ち下ろすことによって土に刃を差し込んで掘り起こす農具だ。
鍬は刃に対して柄を直角から鋭角にL字型に取り付けてあるもので、鋤は刃と柄が水平に近い角度で取り付けられたものである。
「備中鍬」は通常の平鍬を改良したもので、股状に分岐した刃を持つ「股鍬」の一種だ。
通常3~5本の刃に分かれていて、平鍬に比べ湿気の多い粘り気のある土壌に簡単に刺さりやすく、刃に土が付きにくいので、日本の水田土壌に適している。
備中鍬の基本的な形状は弥生時代から存在している。
しかし「備中」と名付けられたのは江戸時代からだ。
良質な砂鉄が採れる中国では、どんな山の奥地に分け入っても「カンナ流し」の跡地がみられる。川の水流を利用した砂鉄を採取した跡だ。
平和な江戸時代になって農地開拓が進んで人口が増加し、鉄製の農具の需要が増えると、岡山県の山間では改良された股鍬の製作集団が形成された。
「備中鍬」がブランド化されて、産地の地名がそのまま商品名となったのだ。
産地がそのまま品名となる例はとても多い。
隠語や業界用語として始まって、そのまま広く世間に定着するという流れだ。
例えば江戸時代に麻酔剤や強壮剤として、ケシの実から採取される液を乾燥して作られるアヘン(阿片)は「津軽」という名前が使われていた。
江戸幕府は阿片に対し非常に警戒していたため、弘前藩に独占的にケシ栽培を認めていたので「津軽」が阿片の隠語とされた。
火縄銃も種子島に伝来したので「種子島」と呼ばれる。
火縄銃は和泉国の堺や紀伊国の根来、近江国の国友が独占的に技術を押さえて生産していた。
これらの地域は元々刀鍛冶や鉄製品の鍛冶集団が多くいたので、鉄砲の製造を行う技術は取得が可能だった。
備中も元々は長船という日本刀の生産拠点があった所だった。
良質な砂鉄が採れる中国地方ではあるが、砂鉄から日本刀の刃鉄に使われる「玉鋼」を作り出すためには、非常に高度な技術が必要である。
いわゆる「たたら製鉄」には、効率の良い踏みフイゴや保温を担う構造をもつ多々良場が造られる。
酸化鉄から純鉄を得るには、木炭を使用した火炎によって炭素還元が必要だ。
更に、硬度がある鋼とするためには鉄に炭素が含まれる必要がある。
酸化鉄である砂鉄は細かい粒状であるので、比較的低温で溶解し還元作用が起こり、しかも低温であるため硫黄やリンが混入しにくく、木炭の炭素の結合がしやすいため、非常に品質のよい玉鋼が生産可能であった。
しかし「たたら製鉄」が始まる前の古代日本では、どこで鉄を生産していたのだろうか。
はるか古代の縄文時代、鹿児島県南部の海中にある巨大カルデラである「鬼界カルデラ」が7,300年前に超巨大噴火を巻き起こした。
過去一万年の地球で最大規模であったカルデラ噴火によって九州南部地方にまで火砕流が到達し、九州に住んでいた縄文人は絶滅した。
居場所を失った九州縄文人の生き残り達は、各地域に海を渡って避難したと思われ、その一部のグループは当時5,000年間無人の荒野であった朝鮮半島に移住した。
済州島や三韓時代の言語は縄文語の末裔であるとされる。
漢王朝が朝鮮半島北部を制圧し四郡を置いた弥生時代、朝鮮半島南部にあった馬韓や弁韓には鉄の鉱山があった。
魏書東夷伝韓の条に「國出鐵 韓・濊(わい)・倭皆從取之 諸市買皆用鐵 如中國用錢 又以供給二郡」とある。
弥生時代、日本から韓に行って粗鉄である「鐵」を求めていたと記されている。
しかし時代と共に朝鮮半島は戦乱の時代となる。
高句麗が隆盛し朝鮮半島の漢の楽浪郡などを滅ぼし、400年以上続いたの漢の支配を排除した。すると馬韓・辰韓・弁韓だった地域から「百済」「新羅」「伽耶」の国が勃興した。
大和王朝は朝鮮諸国に軍事や政治的に色々な影響力を行使した。
倭人の諸国連合であった伽耶には鉄鉱山があった。
任那という直轄地は、大和王権が鉄鉱石の鉱山である「谷那鉄山」を重視したからである。
しかし朝鮮諸国が緊張状態であるのが大和王権にとって一番重要であったのに、その均衡が崩れてしまった大事件が起こってしまう。
「百済滅亡」だ。
鉄の供給地を断たれた大和王権は、亡命してきた百済の鉱山職人を擁して国内の鉄鉱山を探すこととなった。
すると「近江国」に鉄の鉱床があることが判明した。
石灰岩の台地に深層マグマが貫入すると、マグマの成分と石灰石が反応し、長い時間をかけて花崗岩との接触面に鉱床が形成される。
「鉄穴」という鉱床が『続日本紀』に記載されているように、砂鉄ではない磁鉄鉱の鉱床が琵琶湖の周辺に存在したのだ。
この鉄鉱石は朝鮮南部の方式で精錬された。
琵琶湖南岸の「瀬田丘陵生産遺跡群」などでは、超高温となる箱形の溶解炉によって鉄鉱石の精錬により鉄が生産され、50年間ほど継続されたと推定される。
飛鳥時代の鉄鉱石の朝鮮式溶解炉は、短期間で砂鉄原料のたたら製鉄法に交代したが、近江国には鉄工の各職人がとどまって、鉄製品の製造が続いたと思われる。
奈良時代、朝廷への刀の貢納が近江国には定められており、鎌倉時代には多くの名人刀工が近江に在住したことが刀の銘より判明している。
戦国時代になると、近江国坂田郡下坂庄の「下坂鍛冶」が鎗の鍛冶で有名となる。
安土桃山時代、秀吉による坂田郡国友の鉄砲鍛冶の発展は、それまでの高い鉄製品加工技術の蓄積によるものだろう。
「国友鉄砲」を生み出す鍛冶集団は、鉄だけではなく鉄砲の各機構を製作する職人集団が分業する「工業団地」のような形態であった。
当時、国友の村全体が鉄砲の生産拠点として繁栄したのだった。
しかし平和な江戸時代になると、鉄砲の需要は激減し、国友は廃れていった。
職人たちは鉄砲製造の金属加工の技術を、神社仏閣の金属装飾品の製造や仏壇の細工などに転身せざるを得なかった。
火薬職人は花火師として江戸時代を生き抜いた。
特に農具の製造は、かつて栄華を誇った国友衆の没落を示すものだっただろう。
おそらく「サカタザメ」の「坂田」は地名であろう。
「近江国坂田郡」の坂田は国友衆の隠語であったのではないだろうか。
江戸時代に農業が盛んとなって、牛馬による唐犂での耕起が盛んになってくると、新しく唐犂の生産拠点として国友村で唐犂の生産が始まった。
鉄製品である犂先と、複雑な角度調整機構を備えた唐犂は、高度な技術力を持つ国友衆にとって独占的に生産可能な農具だった。
大阪を中心として、岡山や広島方面に唐犂耕起が普及するに従い、唐犂の生産地である「坂田」が、「坂田犂」という名称で広まったのだろう。
まるで備中鍬のように。
江戸時代に唐犂の生産で生き抜いた国友衆は、明治時代になって「自転車」の生産で生き抜くことになる。
外国製の銃を製作していた「宮田製銃所」は、輸入品であった自転車の修理をきっかけに自転車の国内生産を始めたのだった。
自転車のフレームなどは、それまで銃を製作していた機械をそのまま使用することができたからだ。
高い技術力を生かし、自転車の生産に命運をかけて転身していく技術者たち。
技術力で生きてきた日本人。
これからの日本の未来はどうなっていくのだろう。