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切迫早産を乗り越えて、第3子姫どん誕生

こんにちはー、助産師のぶきっちょです。今回はわが家の3番目の子、姫どんについて書いてみようと思います。

記事を読む前に
【わが家の家族構成】
私:生き方も考え方も行動もぶきっちょな助産師。マジメにコツコツ派。自然派志向。ネガティブに悩みまくった後、急にポジティブな思考に切り替わる瞬間があり、そのゾーンに入ればどこまでも前向きにがんばれる。
夫:妻のネガティブ小言に付き合わされているが根っからの自分軸思考で惑わされることはない。
ハカセ:第一子、長男、2006年生まれ
ピョン吉:第二子、次男、2008年生まれ
姫どん:第三子、長女、2011年生まれ

兄2人に続いて生まれてきた姫どん。スリムに生まれた兄達に比べて、お腹の中でずっしりと育って生まれてきました。わが家で初めてのぽっちゃり赤ちゃんでかわいかったでふ。O型の兄達に比べて、なかなかの繊細さを持つA型の女子です。繊細なところは姫なんですが、ドンと頼れる一面もある、そんなところから姫どんです。

次男ピョン吉の時からやや切迫早産気味だった私は、姫どん妊娠中は完全な切迫流産、切迫早産となりました。妊娠16週から子宮頚管の長さは18〜20㎜しかなく、2週間自宅安静をしたにもかかわらず、妊娠18週でさらに15㎜と短くなってしまい、あえなく入院となったのです。

一般的に子宮頚管の長さは3-4cmくらいで、臨月より前に2.5cmを切るようなら治療対象となることが多いです。

なぜこんなにも子宮頸管が短くなってしまったのか、その理由には心当たりがありました。
【理由その1 : 自転車に乗っていた。】
ピョン吉を前に、ハカセを後ろに乗せて、自転車で保育園の送り迎えをしていました。
【理由その2 : 引越をした。】
妊娠16週で引越をしたのですが、その翌日から陣痛並みに10分おきにお腹が張るようになりました。
何年経ってもポンコツぶきっちょな助産師の私です。妊婦さん達には「やってはいけませんよ☝️」と言うことを当時は平気でやっていたのです。

さぁ、こうなったら私にできることは安静にしておくことだけ。4歳間近のハカセ、2歳間近のピョン吉を夫と実家の父母にお願いしての入院生活。かわいい盛りの子どもたちの成長を間近で見ることができないのは辛いものでした。夫が週末になるとハカセとピョン吉を連れて会いに来てくれたのですが、「おかあさーん」とハカセ、「おかぁしゃーん」とピョン吉が走り寄ってきてくれて、かわいくてかわいくて仕方なかったのを覚えています。その頃の保育園ノートを読み返すと、母の字で二人の様子が書いてありました。特にピョン吉は夜なかなか眠りにつけず、入院初日の夜は「おかぁしゃーん、おかぁしゃーん」と泣きながら私を呼んでいたそうで、今読み返しても心がぎゅーっとなります。

夫、父、母には負担をかけて申し訳なく思い、ちびっ子2人を連れての面会やお買い物、日々のご飯やお風呂など大変だろうなぁと心苦しかったです。4歳と2歳の男の子、部屋で遊べる訳もなく、外に連れ出さないとエネルギーも発散できないし。何かと連れ出す必要があるため、大人の体力を消耗させる年頃ですよね。今頃何してるかなぁ、保育園の荷物の準備大丈夫かなぁ、お父さんもお母さんも身体大丈夫かなぁと気になることはたくさんありました。

ありがたいことにみんなが姫どんのために一致団結してくれて、「ワンチーム」で長かった4ヶ月を乗り切りました。特に定年退職後、夫婦仲が難しくなっていた父と母が協力して孫育てをしてくれて、迷惑をかけた私が言うのも何なんですけど、あれはあれで父母夫婦にとってはいい時間でもあったように思います。夫もあの期間があったことで父親力がぐーっとUP↑して、子ども達を待てるようになったようでした。ピンチはチャンス!本当だなと思います。

私は今も昔もぶきっちょなので、家族に感謝の気持ちを持ちながら、それを上手に表現することができず、それを今も反省しています。今でこそ文章でこんなふうに表現していますが、当時はなかなか素直に感謝の気持ちを伝えられず、特に今は亡き母に対して、もっともっと素直に気持ちを伝えておけば良かったと思います。

入院から3ヶ月が経ちました。同じ病院に3ヶ月以上は入院できないと主治医から言われ、退院して自宅療養をするか他の病院に転院するかの選択肢を提示されました。その頃は妊娠34週を迎え、正期産まであと3週間となっていました。
妊娠34週は胎児の肺機能が成熟する時期で、たとえ生まれたとしても胎外で呼吸することが可能になる頃と言われます。しかし、少しでも姫どんが良い状態で生まれてこれるようにしてあげたい、自宅では安静は保てないことは予想できる、ということで転院して入院生活を続行することにしました。

転院前、最後の診察で子宮頚管長は15㎜。家族が迎えにきてくれた車に乗り込み、次の病院に移動しました。すると、着いた病院で診察してもらってびっくり。なんと1指半から2指開いていると言われたのです。「あえて測ってあげようか。んー、そうだねー、無理矢理測れば子宮頚管は8㎜かねぇ」と転院先の医師に言われました。子宮頚管は測るところが2つあります。長さと開大です。長さは前述しましたが、一般的には3-4cmあるものです。出産に向けて短くなっていき、赤ちゃんが生まれる時には紙のように薄くなります。開大とは、開きなんですが、赤ちゃんの頭が通るため10cmまで開きます。つまり車で移動したにもかかわらず、転院という行動だけで子宮頚管がこれまでより短くなり、閉じていたはずなのに3cm開いてしまったというのです。

「え、さっきまで15㎜あったのにー?そういえば、お腹がじわじわと痛い。」
とショックを隠し切れない私。
姫どんの推定体重は2260gで、まだまだ小さな赤ちゃんです。これまでの安静生活でストレスが溜まっていた私は、あと2週間だけ〜と、気を緩めてしまいそうになっていました。でもやっぱり安静は必要であると認識し、あと2週間頑張ろう!と覚悟を決めたのです。

妊娠36週を越え、妊娠10ヶ月に入りました。ピョン吉の時と同じように自宅出産を目指していた私は、念には念を入れて正期産となる妊娠37週まで入院させてもらい、退院しました。自宅出産には開業助産師さんに来てもらうのですが、正常産しか扱えないので、早期産になっては困るのです。

無事妊娠37週を迎えて退院できた時には季節は変わり、冬から春になっていました。4ヶ月の安静生活で私の筋肉はすっかりと落ちてしまい、自宅の階段を上るのも息が切れます。衰えた身体を動かしながら、出産の準備を始めました。それにしても、安静の弊害は大きかったです。少し動いただけでも疲れてぐったり。でも保育園の迎えまでに済ませなければいけないことが主婦にはたくさんあります。ここまではやりたかったけど、今日はもう無理だな、また明日にしよう。自分と折り合いを付けながら1日、1日と過ぎていきます。
早産のリスクに怯えながら過ごした割に、結局姫どんが生まれたのは妊娠39週を過ぎてからでした。幸いにも時間が取れたので、出産の準備も間に合いました。

姫どんの出産については、また記事を改めて書いてみようと思います。待ちに待った赤ちゃんの誕生。家族と協力して守った命なので、この日を迎えられてよかった、と家族への感謝の想いがじわ〜とこみ上げてきました。生まれたての姫どんは努力呼吸が見られましたが、徐々に上手に呼吸できるようになり、ひと安心。安静期間はしんどかったですが、しっかり成熟した状態で産むことができ、心から良かったと思いました。私の場合はリトドリンの内服と安静で乗り越えられましたが、点滴をされている方は身体的にも精神的にも内服よりしんどいと思うんです。でも、今、切迫早産でしんどい思いをされている方、頑張った先には安心があります。その生活は期間限定ですから、もうしばらく、もう少しだけがんばりましょう。

こうして生まれた姫どんは4月生まれという誕生月の特徴もあってか、保育園では同じクラスの中で年長者であり、しっかり者で通っておりました。乳児の頃は特に月齢での発達の差が大きくて、色んな発達段階の子が同じクラス内に存在していておもしろいですよね。色んなことができるようになった月齢の高い子達に憧れて、月齢の低い子達の発達が促されていく様子は兄達の時にも見てきました。でも兄達は12月生まれで、どちらかというと追いかける方でしたので、まさかわが子がクラスを引っ張る存在になるとは、と感慨ひとしお。

他に、姫どんには3、4歳という年齢であっても、私の役に立とうとする行動がよく見られました。まるで私のことを助けるために生まれてきたかのようです。
「瓶の蓋が開かないー💦」と私が苦戦していると、
「貸してごらん」と姫どん。
もちろん開けられないので、結局
「おとーさーん、開けてー💦」
となるのですが、時には母のように、時には姉のように、私のことを見守り助けてくれていた姫どん。その傾向は今もあり、頼もしい限りです。小さい頃から、ぶきっちょな私のことが頼りなく見えたのかも知れません。

しかし、一見しっかり者に見える姫どんですが、おしゃべりが上手になる2、3歳頃から頻繁に自分の存在意義を私に確認するようになりました。
「おかーさん、姫ちゃん生まれてよかったか?」
「女の子だから生まれて良かったか?」
「女の子欲しかったか?」
と、ひたすらこういう質問をするようになったのです。
その度に、私は姫ちゃんが生まれてきてくれて良かったこと、嬉しかったこと、たとえ女の子じゃなくて男の子であっても喜んでいたことを伝えるようにしていました。姫どんは話して聞かせると安心した顔をしていました。

しっかり者の一面もありましたが、親の目から見ると、どちからと言えば臆病で失敗を恐れがちで、自信の無さからさまざまなことを何度も何度も私に確認することの方が多い子でした。幼児から小学校低学年頃までは後者の方が目立ち、おっちょこちょいな面が目立っていたので心配しました。

さぁこれでわが家の子どもたち、みんなnoteの中で誕生いたしました😊この子たちにたくさん要求されながら、その時その時で試行錯誤の育児をしてきました。いくら助産師でも、一人一人性格も特徴も違う3人の子どもたちの育児を行うのは大変でした。
でも今日のところはこの辺で。
思い出したことから今後もちょこちょこ書いてみようと思います。

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