「ジャスミンの香る部屋づくり」第1話(全9回)
あらすじ
第1話
「象の呼吸」と名付けられたその色は、黄みを含んだあたたかみのあるグレーにほんの一滴だけマゼンダを垂らしたような赤みを感じさせます。こうした色を広い壁に使うと、窓から差し込む光や照明、室内の家具や生地の色をひろって多様に表情を変えるので、塗ってはじめてその魅力に気付かされることも多い色です。
南向きで光のよく入る寝室の壁にこの色を提案することを決めて、その改装計画に血が通い始めました。
先生から10年ぶりに連絡をいただいたのは、そろそろ年賀状の抽選結果を確認して片付けたいな、と考えていた1月末のことでした。可愛らしい青い小花のイラストが描かれたお手紙を受け取った時、伸びやかなその字からすぐに先生だと気がつきました。すっかりご無沙汰してしまっておりましたが、毎年の年賀状だけは欠かさず、一年に一度はお会いする先生の字。何事かとドキドキしながら封を開けると、年賀状のお礼とこちらを気遣うあたたかな言葉に続いて「家のことで相談にのってほしい」と記してありました。私が大学を卒業して設計事務所に就職したこと、その後独立してフリーのインテリアコーディネーターになったことは年賀状で伝えていたので、それを思い出してくれたのかもしれません。
先生にお電話したのは大学の合格を伝えたあの電話以来。いや、その後にご挨拶にお宅へ伺ったのでそれ以来でしょうか。いずれにせよただでさえ電話が苦手な私、10年ぶりのお電話を決心するまで、夕方近くまでかかってしまいました。
ドキドキしながら電話のコール音を聞く間、あの広くて暗い玄関で鳴っている黒電話のことを思い出します。4回鳴った後に聞こえた先生の声に、ブワッと時間が巻き戻ります。先生だ!
私は結婚してかわった苗字を名乗ってしまったことで初っ端からしどろもどろになり、旧姓を名乗り直しお手紙を受け取ったことを伝えました。先生の声がふわっと明るくなります。長いことご無沙汰してしまった非礼を詫び、何も気の利いた会話のできないまま、とにかく伺って詳しいお話を聞かせてもらう約束だけは取り付けました。
先生と私との出会いは高校2年生まで遡ります。塾どころか受験にも興味がない私に、「とにかく英語だけはやっておいて損はないから」と個人指導してくれる先生を母が見つけてくれました。勉強は好きではありませんでしたが、海外の音楽や生活に憧れもあった私は少しだけ興味をもち、一度お会いしてみることになったのです。
辻堂の駅を降りて、松の木がやたらと目につく道を海の方向に10分ほど歩いた先に、先生の家はありました。長く続く板塀から敷地の大きさが窺い知れます。石段を3段ほど上がった、分厚い木製の門扉が開け放された先に、すりガラスの引き違い戸が見えました。インターホンで「中までお入りください」と伝えられていた母と私は、重いガラス戸を引いて玄関に入りました。生まれてからマンションで暮らしてきた私には全く馴染みのない純和風のお家。巨大な沓脱石。真っ暗で、ひやっとする玄関。上がってすぐの床が畳だったことにも衝撃を受けました。3畳ほどの空間中央に置かれた赤褐色の衝立を背に迎え入れてくれた、背の高い女性が先生でした。
入ってすぐ右手のお部屋に通されると、意外にもそこは洋室。これは大学に入ってから知ったのですが、1920年代(大正から昭和初期)から和風住宅の玄関脇に洋風の応接間を設けた「洋館付き和風住宅」あるいは「中廊下型住宅」が作られました。授業で「中廊下型住宅」を知った時は「先生のお家だ!」と懐かしく思い出しました。
身長165センチだった私と同じか、それよりも少し高く見えた先生は、退職されてからご自宅で英語を教えてらっしゃいました。横浜で歴史のある女学校の英語の先生をしておられたそうで、同じく横浜の女子校に通っていた私には馴染みのある、「プライドをもって働き続けてきた職業婦人」といった迫力のある女性でした。
と、今になってみれば愛情深く思い出せますが、当時はとにかく「こわっ!」という印象しかなかったのも事実。先生が教えておられた学校と私の学校とでは大分レベルの差がありまして、その中でも後ろから数えた方が早いほど成績が下の方にいた私。そんな先生と一対一で対峙しなくてはならないなんて、早々に失望されるであろうことは容易に想像がつきました。
それでも通うことになったのは、「とりあえず会ってみる」はずだったのに「どうぞよろしくお願いいたします」と隣の母が頭を下げてしまっている引くに引けない状況と、最初にみた玄関のインパクトが大きくて、この家に出入りしてみたい、というちょっとした好奇心があったように思います。
そこから2年間、人生を変えるほどの経験をさせてもらえたのが先生の授業でした。
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