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第二十七話 復興局疑獄事件

 「友」。
 あるいは「友情」という美意識が、「人生の行動原理」として芽生えたのは、いったい、いつのころからなのだろう。
 本稿を書きながら、ふと、思ってしまった。
 辞書を引いてみると。「友」は古い。日本書紀にも万葉集にも、出てくる。だが、「友情」は、どうやら明治期らしい。初出例として高村光太郎や武者小路実篤の名前が出てくる。
 明治の青年たちに芽ばえたこの新しい美意識は、あるいは、シェークスピアやデカンショに親しんだ旧制一高の全寮制学舎あたりに、そのルーツを持つのかもしれない。デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルのことである。
 一度、友になったら、とことん信じて、裏切らない。明治男の十河信二にとって、「友」は人生最大の宝物であった。十河は、孫文の好んだ「天下為公」すなわち「天下をもって公となす」にあやかって、晩年まで好んでこう揮毫きごうした。
 「天下為友」
 天下は友なり。
 鬼と恐れられた石郷岡検事が、取引先にことごとく友人の存在することをあげつらったとき、十河信二は「友情は、生まれるものであって、作るものではない」と言い放ち、「以降、問答無用」と宣言した。
 この獄中からの声に応えるように、友人たちが、一斉に、怒涛のように、十河信二救援に動き出す。

 十河信二が検事局に召還されたのは、大正十五年一月二十七日である。
 翌二十八日の新聞は、「かねて取調中の土地ブローカー松橋良平」が市ヶ谷刑務所に収容され、請負業の武川某、平沢某らの取調べも行なわれたと報じている。
 さらに三十日の東京朝日新聞は、「手を縛られて十河氏の出廷」という大見出しの記事でこう伝えている。
 「午後には刑務所から十河氏を引き出し石郷岡検事自ら松橋と対質(たいしつ)の上、両者の贈賄関係の訊問をなした。この日の十河氏は収容当時のモーニングを脱ぎ、茶がかった和服に手錠、編笠といううって変わった姿で悄然と看守二名に引立てられてきたのは、哀れであった」
 まったくもって、哀れというほかない。
 少年時代の刑事ごっこでも犯人役になれないほど、すこぶる正義感の強い男である。手錠に編み笠姿で廷吏に引き立てられるなど、耐えられるわけがない。あるいは、この装いは、理不尽な拘束に抗議する十河信二の意思表示であったのか。定かでない。
 この日の夕刻には、十河信二は涜職とくしょく罪で起訴される。職をけがした罪、つまり汚職である。記事に、こうある。
 「復興局の土地収容問題及び鉄道省の物品購入に際してさきに収容された松橋良平の橋渡しの下に右平沢政三他数名の請負業者、御用商人等から約二萬円の収賄を行った事実が判明し……」

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