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第十八話 十河信二のアメリカ生活を追う

  二〇〇一年の春に「ラピタ」誌連載でアメリカ取材に出かけたとき、十河信二を知る何人かのアメリカ人を訪ねてみた。以下、連載原稿から引用します。

 デービッド・ルー教授は、日本近代政治史の研究者として著名である。
 一九二八年、台湾生まれ。台湾大学卒業後、米国留学。コロンビア大学で博士号を取得して(国際法、国際関係)、バックネル大学教授・日本研究所長。邦訳書に『松岡洋右とその時代』『太平洋戦争への道程』などがある。
 ルー教授は、日本史研究のためにたびたび来日して、十河信二にも親しく接している。熱心なカソリック信者で、筆者が訪ねたときは、ボルチモア郊外に引退し、悠々自適の生活をされていた。

「ソゴウさんとぼくがいちばん熱心に語り合ったのは、信仰問題でした」と、ルー教授。
「真の神とは何か? 絶対者としての神とは、何か? あるべき世界、あるべき社会、あるべき人生とは、何なのか? そのことを宗派を超えて考え続けた人です」
 ルー教授の印象に残っている会話は、たとえば次のようなものだ。
「ルー教授、人は神に、生命と使命を与えられる。その使命を全うするためにこそ、人は生きる。そうでしょう?」
 と、十河信二。
「でも、神が人を造る……という考え方は、仏教にはありませんよね」
 と、ルー教授が指摘すると、
「仏教にこだわっているわけじゃないんです。仏教でなくたっていいさ。神に対する信心があることが大事なんだから。哲学は、死んだ理屈。信仰は、生きた理屈ですよね」
 と言って、十河信二は頷いた。

 ルー教授によれば、若き日に十河信二が破門されたのは、牧師のほうが日本の宗教事情に無知だったからである。仏壇と神棚が同居している国だからこそ、若き十河も宗派を超えて絶対的な神というものを問い続けることができたのである。

 十河信二ゆかりの人物をもうひとり訪ねてみた。
 ウィリアム・ビークマン。
 ビークマンは、太平洋戦争の末期、従軍牧師として沖縄戦を目の当たりにする。そして、戦後、日本人のために役立ちたいと決意して、山梨県甲府市で布教活動を展開した男である。
 ビークマンは、ニューヨークの少年時代から大の鉄道ファンで、日本でも機会を見つけては鉄道に乗りまくり、そのあまりの鉄っちゃんぶりが国鉄にも伝わって国鉄外務部嘱託となり、十河総裁の通訳として可愛がられた。
 残念ながら、ウィリアム・ビークマン氏は、筆者が訪ねる二年ほど前にコロラド・スプリングスの地で逝去されていた。十河信二とどんな信仰問題について語り合ったのか、聞けずしまいに終わってしまった。
 だが、奥さまにお会いすることができた。
「……遠くからお訪ねいただき、本当にありがとうございました。ビルは、最後まで、ソゴウさんとシンカンセンを誇りに思っておりました」
 と、丁寧にご挨拶いただいて、恐縮した。

 今回の取材では、十河信二の3軒のホームステイ先を訪ねてみた。
 マシュー家のあったヘイスティング・オン・ハドソ ンは、ハドソン河を見下ろす緑豊かな郊外住宅地であった。ハドソン河に突き出た小さな一角に古い製鋼所が残っていて、それはかつて十河の滞在時代にドイツ系労働者の反乱を噂された工場であろう。旧マシュー家は、ついに見つからなかったのだが、付近一帯は、坂道の多い、由緒ある別荘地のごとき豊かさをたたえていた。
 しかし、帰国直後に、ニューヨークでお世話になった歴史研究家D・マクロウ氏から、旧マシュー家の建物が健在である旨のファックスが届いた。同送されていた写真を見ると、やはり、いかにも大きなお屋敷である。
 ロチェスター市の旧スペリー家は、住所がわかっていたので、難なく見つけられた。
 素敵な家であった。
 アレキサンダー通りは、いまも 医者や病院関係の建物の多い通りで、旧スペリー家も、つい数年前まで向かいの眼科医が診療所として使っていたらしい。小雪まじりの空に、カラフルな家並みのよく映える街並みであった。十河信二が「夕食の後夫妻と楽しく話しこんだ」というバルコニーには、腐食して千切れそうになったブランコが静かにぶら下がっていた。
 旧マシュー家も旧スペリー家もいずれも木造建築だったのだが、80数年の歳月に耐え、健在であった。
 しかし、マンハッタンに近いジャージーシティのオースティン家は、跡形もなく消えていた。度重なる再開発の波に洗われて、グリーンルーム(ここに十河信二が起居した)を備えるほどの豪邸は、とうの昔に消え去ってしまったらしい。
 十河信二は、NYがもっとも活力に溢れていた時代に、もっとも健全なアメリカ人に近しく接したのだ……ということを、3軒の家を訪ね歩きながら強く思った。
 おそらく、十河信二はアメリカ女性を好きになったであろう。

 ここで、ビル・ホソカワという日系移民二世について触れておきたい。
 ビル・ホソカワは、「デンバー・ ポスト」紙の主筆を長年にわたって務めたジャーナリストで、アメリカにおける十河信二の紹介者でもある。デンバーに移住した五男の十河新作と知り合い、私家版評伝『十河信二』をもとに『Old Man Thunder』という伝記を書いている。
 十河信二の第一次大戦下のアメリカ体験は、ほぼ東海岸に限られている。当時、東海岸の諸都市にはまだ日系移民が少なく、事実、マシュー家のあるヘイスティング・オン・ハドソンでは、十河信二以外に日本人は一人もいなかったらしい。十河信二は、「排日」からまだ無縁であり得た東海岸の比較的裕福な中流家庭において、東洋からのエリート官僚、いわばVIP候補生として遇されたのである。
 当時の日米関係において、もっとも緊迫していたのは、カリフォルニア、オレゴン両州を中心に西海岸一帯を席巻した大嵐のごとき排日運動である。
 「政府に開戦を慫慂す」
 「ジャップを叩き出せ」
 日米双方の右派メディアには、 日米・米日開戦というファナティックな言葉まで躍っていた。十河信二が抱いていた渡米前の対アメリカ感情には、この西海岸一帯における熾烈な排日運動が色濃く影響していたのである。
 このことについては、第十五話でも触れた。

 日系移民1世であるビル・ホソカワの父親について、ごく簡単に紹介しておく。
 ビル・ホソカワは、一九一五年、シアトルに生まれた。父の名は細川節吾。母はキミ子。ともに広島県出身である。『日系移民人名辞典〈北米編〉』(大正十一年、日米新聞社) には、こう記述されている。
 「細川節吾 広島県安佐郡安村 明治十七年生、卅二年渡米、沙市定住デニ学校に研学後美術店経営 六年現在桂庵業の傍ら農園材木輸出業経営、果物罐詰会社幹事」
 明治十七年生まれといえば、十河信二と同年である。広島県安佐郡は、十河の郷里・愛媛の対岸だ。
 ビルによれば、父・節吾は、明治三十二年、十河信二が西条中学でストラ イキに明け暮れていたころ、十六歳で単身渡米する。節吾は、モンタナを振り出しに鉄道労働者となり、後にカリフォルニアの農園で働き、さらにフィリピン行きの米軍鉄道輸送部隊に転じて自営のための資金を作り出し、シアトルで独立している。
 当時、アメリカ西部の鉄道建設や保線工事は、ほとんど東洋系移民すなわち、まず中国系移民、次いで日系移民によって行なわれた。 その昔、一八六九年に開通した大陸横断鉄道においては、「枕木一本に中国人一人の骨が埋まっている」と語り継がれている。その後も、状況は似たようなものであったらしい。

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