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第十九話 横紙破りの男たち

 帰国した十河信二がまっ先に訪ねたのは、東京海上ビルの森恪事務所である。
 森は、うれしそうに出迎えたであろう。
 「どうだい。どでかい国だろう」
 「うん」
 森恪と会うのは、これが二度目である。しかし、この二人は、まるで竹馬の友のように再会を喜んだ。以下、こんな会話がかわされたのではないか。
 「あっちで、すっかり中国に目覚めたよ」
 十河は、アメリカで考えた日中問題についてひとしきり論じる。森はウンウンとうなづきながら聞いている。
 「しかし森君、君の言うように、残念ながら日本の政界は、まるで大陸情勢に対応できていない。内閣が交代するたびに政策が変わる。まるで鍋鶴線だよな。鉄道が鍋蔓線になるぐらいなら、後世の笑い話になる程度ですむかもしれない。だが、大陸政策が鍋蔓線になっては将来に禍根を残す。命がけで大事を成す政治家が必要だということがよくわかったよ」
 森恪の頭上には、「博 愛」の扁額がかけられている。
 一年半前に眺めたときはただフーンと思っただけだったが、今度はキラキラと輝いて見える。
 「一度、会ってみたいなあ。孫文に」
 「うん。じゃ今度来たときにでも紹介するよ」

 孫文はたびたび来日して、長逗留している。
 初めて日本の地を踏んだのは明治二八年。日清戦争の終わった年の秋である。このとき、十河信二は十一歳。孫文、三〇歳。前の年にハワイのホノルルで清朝打倒を目指す革命団体「興中会」を立ちあげ、初来日して、横浜の山下町で「興中会日本分会」を結成した。以後、来日は十数回を数え、滞日期間を合算すると、ざっと八年半に及ぶ。 
 だが、ピタリと足が止まった。第一次大戦終結の年、すなわち一九一八年の六月に来日したのを最後に、以後、ぷっつりと足が遠のいた。
 日本離れしたのである。

1930年頃の森恪
1910年頃の孫文
山浦貫一編修『森恪』(昭和15年、森恪伝記編纂会発行)

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