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第二十五話 西洋覇道か、東洋王道か

 鶴見祐輔の孫文インタビューが発表されてまもなく、中国国民党が大政策転換を発表し、世界を驚かせた。
 「連ソ容共、扶助農工」
 ソ連と連盟し、共産党員を受け入れ、農民と労働者が互いに助け合って北京政府を倒し、革命を成就させよう。
そのように宣言した。翌一九二四年の一月には、中国国民党と中国共産党が正式に手を結び、「国共合作」が成立する。関東大震災から、五か月……。
 そして、同年九月に、第二次奉直戦争が勃発する。
 北京政府を牛耳る直隷派に対して、奉天派の張作霖が再び反旗を翻した。このとき背後で直隷派を支えていたのはイギリスとアメリカで、奉天派を後押しをしていたのは日本である。

 孫文も、動かざるを得ない。
 軍閥打倒のために、何度目かの「北伐!」を宣言し、腹心の部下・胡漢民を大元帥代理として広東に残して、自ら先頭に立って北伐軍の出発準備にとりかかった。胡漢民という人物は、後々、十河信二が密接に関わることになる。名前を覚えておいていただきたい。
 だが、この二回目の奉直戦争は、直隷派の内部崩壊であっけなく終結する。
 馮玉祥という直隷派の軍総司令がクーデターを起こし、呉佩孚や曹錕などの直隷派主脳部を敗走させてしまう。北京を制した馮玉祥と張作霖は、ふたたび段祺惴を引っぱり出し、さらに孫文にむかって一刻も早い「北上」を呼びかける。孫文を迎えて新しい政治体制について会議したいと説得する。
 馮玉祥には、辛亥革命のとき、鸞洲で起義に馳せ参じた経験がある。孫文を新中国建国の指導者として尊敬していたらしい。
 孫文は、この呼びかけに応える。国民会議を開催することを条件に、北京に向けて出発する。
 その北京への北上の途上に、意を決して、日本に立ち寄るのである。
 
 孫文が神戸に姿を現したのは、十一月二十四日。すでに初冬を迎えていた。
 当時の新聞によれば、孫文は「黒の上衣に水色のスカート」という派手ないでたちで日本郵船上海丸のタラップを降りた。「スカート」は、裾の長いスカート状の中国服のこと。
 かたわらに、宗慶齢。この美貌の夫人は、毛皮の帽子と毛皮のコートにすっぽりとくるまれて、ひどく愛らしく、病苦を背負う頽齢亭主の古木のごとき風貌をきわだたせた。このとき孫文、五十九歳。孫文は五十歳のとき、二十二歳の宗慶齢と再婚している。
 孫文は、神戸市民の熱狂的歓迎を受けた。
 しかし、日本の政財界は、概して冷淡であった。船中からの電報で「ぜひ会いたい」と申し込まれた犬養毅は、このとき配下の古島一雄を神戸に送り、財界人として孫文と親交のあった渋沢栄一も、代理を立てて姿を見せなかった。
 森恪は、二度目の選挙で落選して、浪人中の身である。
 「おい、十河、一緒に神戸に行くか」
 と、森恪は誘ったかもしれない。
 むろん、会ってみたい。
 だが、十河経理局長は、このとき、猛烈に忙しかった。とても、行ける状況にない。
 
 このとき、帝国議会は「鉄道予算問題」で大紛糾している。
 鉄道大臣は仙石貢。いうまでもなく、筋金入りの「改主建従派」で、地方の我田引鉄線を「建」設することより、主要幹線を「改」良し、輸送の効率をあげることこそ鉄道政策として正しい……という揺るぎない信念を持っている。 
 「改良費一億二二〇万円、建設費三三〇〇万円」 
 新線の建設予算は幹線増強費の四分の一! この明々白々たる仙石鉄相の改主建従予算に、
 「冗談言うな!」
 と、政友会が猛反発した。こんなに建設費が削られてしまっては、八〇線近くの未完成線の建設がすべて繰り延べになってしまう。これでは選挙に勝てない。
 「せめて新線建設費を五〇〇〇万円以上にせよ。話にならん!」
 「何と言われようと、計画の建て直しなどせん!」
 鉄相は、まるで相手にしない。
 このとき政友会は、憲政会、革新倶楽部を従えて与党三派を構成していた。その与党三派の屋台骨が抜けてしまえば、内閣は倒れるしかない。さらに憲政会の中にも、我田引鉄派の議員が少なからずいて、仙石案を迷惑に思っていた。加藤高明内閣はあわや総辞職寸前かという瀬戸際に追い込まれていたのである。

 逓信大臣の犬養毅が調停に動いたのは、十一月十七日である。犬養は仙石と昵懇の仲であった。
 「僕は鉄道のことは、よくわからん。もとより君の計画には君として相当の理由があるのだろう。しかし、ここまで紛糾してしまっては、もう手を打たねばならん。こんな問題で政府と与党間が疎隔してしまっては、はなはだ醜態というほかない。なんとか適当円滑に解決を図ってくれんか」
 「オレの計画は、党派的感情や私心から出来上がったものではまるでない。鉄道政策としてしごく当然の結論だ。そのことは了承してくれ。しかし君が奔走してくれているのだから、オレとしてもその趣旨にそうように十分に考慮しよう」
 とは言ってみたものの、仙石鉄相も政友会議員たちももちろん意地っぱりで、なかなか適当円満な落ち着きどころを見いだせない。とかく仙石親父の雷も各所で炸裂して、事態をさらに紛糾させた。犬養らが仙石と加藤高明首相と政友会の間を駆け回って、ようやく「加藤首相に一任」という妥協案がまとめられたのは、すでに十一月も押し詰まっていた。

 十一月二十九日、加藤首相の「建設費四六〇〇万円。将来的に新線建設にも努力する......云々」という決裁案を与党三派が了承し、ようやく一段落した。
 この間、十河経理局長は仙石雷雲の直下で数字作りに忙殺され、一歩も国会と鉄道省を離れることができなかった。孫文が神戸に滞在した一週間は、仙石雷親父主役の鉄道予算騒動劇でまるまる潰れてしまったのである。

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