21.11.7 カラダの動きにココロがつられて【642日目/1000日】
ココロが凝り固まってしんどくなったり病みそうになったらカラダを動かすのが一番効くのだと聞いたことがある。ただあまりにも心が疲れてしまうとその体を動かすことも難しくなるから、風邪薬のよろしく、罹り始めに試したら早く効くように思う。
体を動かすこと=心を動かすことになるなら、気合を入れて仕事を進めたい時の脳みそを動かすのにもきっと効くはず。体が動いてるのにつられて頭がぐるぐる回ってくれるはず、そう踏んで今朝は朝散歩を兼ねた徒歩買い物に出た。
出掛けは日の出前の空。もうすぐ太陽が出てくるぞという時間の空は祭りの前のワクワク感でいっぱいになる気がする。
24時間営業のスーパーに日曜の7時には人も少ないだろうと思っていたけれど予想より多めの人出。感染者数は減っているらしいけれどそれでも慎重に行動したい人はある一定数はいるのかもしれないな。
街路樹は黄色や赤に染まり始めていた。この木は「モミジバフウ」(のようだ)。赤い葉がメッシュのようでちょっとヤンキー風(このヤンキー感、昭和だな)。剪定されていないのか木の全体像がなんか冴えない。枝も電線に触れているようだしこんなところにも費用削減の影響が出てるだろうか。
便利と不便を揺れながら
去年も一昨年も私は便利がかえって不便なんじゃないかと思っていた。今もそれは全く変わらない。
この記事によるとこの時の私は便利についてこう思っていたらしい。
便利になることは果たして「良い」ことばかりなのか。つながりがカンタンになって、繋がったと錯覚できるツールが広がってもそれは便利になっていることなんだろうか。物事をショートカットで効率よくこなすことが賢いことなのか。
便利にするのは、それが不便だと思って人がその不便から自由になることだと思っている。ただその便利が不要だと思っている人にとってその便利を躾けられるのは重荷になるはずだ。その両極の人がいるのだけどその間を揺れながら、誰にとっても便利なものにしていくのには時間がかかるのだと思う。物事が動く事は変えたい側と変えたくない側がいるけれど、そのどちらかが勝つとか負けるじゃなくて時間をかけて中庸を見つけて融合していくことが人間らしい道なんだろうなと思う。便利不便に関わらず、ここ最近の無理矢理にどちらかに靡かせようとする(時には力づくで)のは言葉を持つ動物としてどうなんだろう。
ああ、話がズレてる。とにかくも、以前からも今も、多分これからも私はきっと便利であることに依存しつつも「これってどうなんかな」と思い続けるに違いない。皮肉れ者はつくづくめんどくさい。
2020→2021→2022年の自分へ
2021年の自分へ
今日は、少し先の予定が出来た事と母の声に元気が戻って気持ちが明るいです。が、逆に食べ過ぎが祟って体は重い。そしてそのだらしなさが部屋にも反映されてて本気でヤバイ。ほんと未だに自己管理はなかなか難しいです。2021年の私のシェイプはどうなってますか。自分を甘やかしすぎてやいませんか。
2021年への返信
ああ。今年もあまりにも状況が変わっていないのでついため息が漏れてしまいました。部屋のだらしなさは去年とあまり変わっていないかもしれません。衣替えの際にここ二年着ていない服は処分しようと決めてはいるのですがそもそもその衣替えが後回しな状態です。それからシェイプ(シェイプって何だ?)ー体型ですが部屋の状態と見事にリンクしています。自分を思い切り甘やかしています。猛省。
去年の私に戒められてしまいました。そして
2022年の自分へ
2021年の今日は2020年の自分に部屋の状況や体型について戒められました。2022年はどうですか。また怒られなきゃダメな状態なのかな。