アナログにした気持ち
うちの時計は目に付くところのものはほどんどアナログだ。数字で時間を示されるよりも視覚的に時間が分かりやすいからだ。全員眼鏡が必要な我が家にはアナログ式の方が断トツで分かりやすい。あとは、同じ12刻みの月単位の話をする時もすぐに『あ、それは半年後』などと引き算をするよりも早くイメージしやすかったりしてその辺でも便利だ…って話を娘にしたら『それはお母さんだけちゃう?』と笑われてしまったが。
でも何よりも、デジタル時計のあの『気質』が合わないのかもしれない。合理的で賢い。ハンドルの緩みがない、ツッコミの余地がないあの感じ。
『今、7:00です』
『いや、見方によってはまだ6時台よね?』
『はっ?何言ってるんですか?7:00と言ったら7:00。ああ、もう7:01です』(きりっ)
というイメージ。緩い私を許してくれないシャープさに馴染めない。実際、少し怖い。
ここまで書いて気づいたのだけど、私は緩い自分を許してくれるモノが好きなだけか。この歳になっても新しい発見はあるのね。
そんな風に、時計は未だにアナログもデジタルもまだまだ『生き』続けているけれど、時代はある時からぐいぐいと進んでいて今は付いていこうと必死にならないとたちまち脱落してしまいそうな焦燥感を常に感じている。実際のところ、私のようなおばちゃんは、かなりヤバイのではという自覚がある。
でも便利だからこその不便には、今までなかった意味も持ってくるのかなとも思っている。『敢えて不便をする』という手間。これは不便をこなしてくれた人のその『敢えて』加えてくれた気持ち…デジタルでは伝わってこないアナログの生な気持ちが伝わって来る。
そんな事を思わせてくれる絵葉書。メールをさらさらと書いて送信してしまえば義理は立つのに敢えての絵葉書に敢えての直筆。この人をフォローしたいと思う人が増えていく(ついでに言うならモテモテな理由も!)理由を実感した。
行動と気持ちは符号する。たとえそれが『ふり』や『処世術』であったとしても自分が感じた気持ちは自分だけの本物。それを大切にして日々ちゃんと生きよう。時代遅れなアナログものでもアナログなりにちゃんとね。
さ、今日は仕事でポカしてしまってるので足取りは重めですが頑張ってきます(๑˃̵ᴗ˂̵)و