![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65823101/rectangle_large_type_2_0515fe3a8c28a80d529949d5bdfccfa2.jpeg?width=1200)
21.11.17 種を蒔く地味な人こそが大事なのに【652日目/1000日】
地味だけど自分の仕事をしっかりしている人にスポットライトが当たれとまでは言わないけれど、明日や少し先の未来を心配しなくても済むように暮らせる社会になったらいいのに。そんな地道な仕事のおかげで世の中の基盤は成り立っているからその上にのほほんと存在していられる。そんな光が当たらない存在を当たり前な存在だと散々叩いたり踏みつけたりしているとせっかく蒔いた種も、少し伸びてきた芽もどれもこれもダメになってしまうような気がしてただただ不安だ。
ってな事を私はずっと考えていたようだ。これは2年前のnote。
このnoteの中では自分の育て下手を申し訳なく思いながらも撒き手として居させてもらったことに感謝をしていた。これも今も同じ気持ちだ。
絵本を読む事も子育てすることも結果ってすぐには出ない地道な種蒔き作業。芽が出たり花が咲いたり、いつかは実がつくかもしれない事も全て見えないけど種は撒かないと何も起こらない。反省する事ばかりで決して上手ではない子育てだったけどお母さんをやらせてもらって本当に感謝しかない。
そして去年。この時も地道な種まきについて考えていた。
世の中のほとんどは「地味な種まき作業」。そんな小さな作業を大事にしてくれる守ってくれる世の中であって欲しいけれど、弱い物は自己責任だと大声で言う人が増え気がして辛い。
この時も地道な暮らしをしている人が自己責任という名の下に切り捨てられていくことを不安に感じていた。今日、社会でその一員として機能していたとしてもそれが明日同じとは限らない。いつその細い橋から落ちてしまうかも分からない。自己責任だとあれこれ言われるからと自分にたくさんの命綱をつけて、それでもまだ自分を守れないかもと不安になって始終支えになるものを探し続ける生活が豊かだとは私にはどうしても思えない。何かのきっかけで細い橋から落ちてしまったとしても引き上げてくれる「手」があれば少しは安心できるだろうけれど、今は各々が自分の生活に手一杯で人に差し伸べる余裕がない。それどころか、橋から落ちてしまった人に向かって石を投げつけて一瞬の爽快感を得ている状況は豊かさとは随分と離れたところにいるように思えてならないのだ。誰かに石を投げつけても自分のこの手一杯で余裕のない生活が改善するわけでもないのに、麻薬のような爽快感に夢中になる状態は本当に病んでいるような気がする。本当に石を投げなきゃならない、この手一杯な生活を改善できるはずの人たちには従順な「優等生」な社会の行き着く先はどこなんだろう。
2020→2021→2022年の自分へ
2021年の自分へ
2019年の今日は「かこさとし展」に行くというニンジンを鼻先につけてだらけていた自分に喝を入れていたようです。2020年の今日の私は、去年のような目の前にんじん🥕を探す事が出来なくて見たくなかった自分を知って自己嫌悪の日々です。そんなトンネルはいつ過ぎるんでしょうね。2021年の今頃の私は何を目標にしていますか?
2020年に返信
今年の私の鼻先のニンジンは家族や親類が揃う時間です。2019年までの自分は他人じゃないかと思うほど家で過ごすことが一番の癒しです。今の目標は今週末。それまでに見込みをつけてしまいたい仕事も山積みなので時間配分をしっかりして取り組もうと思います(掃除は出来てないけどそこは多めに見てもらう予定)。
2022年の自分へ
今日は毎月恒例の美容院の日でした。この日がなかったら自分のメンテもほぼしなかっただろうからありがたい習慣です。今日は「糖質0パン」や「ポッサム」のレシピなど美味しい話をたっぷり聞きました。帰り道で食材も揃えたので早速試してみようと思います。2022年秋、何か美味しいものを食べましたか?作りましたか?