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皮が厚くなるまで
ギターの弾き語りが好きだった。決して上手ではないけれど好きだった歌手の曲を楽譜を見ながら弾くのが楽しかった。田舎にある実家は家と家との間隔が広く、おまけに私の部屋も家の端っこにあったのでジャンジャカ弾いては熱唱するのが(下手の横好きだけど)たまらなかった。結婚して子どもが出来て生活環境も変わりもうすっかり弾かなくなったし歌わなくなった。先日、気が向いてギターを弾いて歌おうにも指は動かないし声も出ない。そして弾いた後は弦を押さえていた左指先が赤くなってジンジンと痛い。毎日のように弾いていた時は全く痛くなかったのに今の私はギター初心者だった頃と何も変わらない位置にまた戻ってしまったようだ。
昨晩、生配信をzoomで鑑賞する企画があってその企画に参加した。観客とは言えど各々の音声環境や接続環境の数秒の時差もあって生の「ライブ」とは違う種類のものだったように思う。出演者に直接話す時間もあったのだけどおういう時に気の利いたことも話を転がすような話も出来ない自分に心底落ち込んで行動しなきゃ良かったという経験もこれもまた普通に暮らしていると見ないふりして生きてしまう所なのでその意味でも得難い経験だったと思う。何事も練習しないと上達しない。でも特段才能も経験も人に話せるような日常もないおばさん(おばあちゃん)にその練習すら必要なのかどうかも分からない。
自分がどうしてこんなに喋るのが下手なのか。それはきっと物事をざっくりとしか捉えてなくて、「分かった気」になっているからだと確信している。話そうとすることの全体を俯瞰して大まかを捉えて詳細を詰めて理解する。その一連の作業が頭の中で出来ない。要するにスペックも容量も小さいということなのだと、人に会うたびにわかる。そして、痛みに弱い私はその自分の小ささと直面して心がヒリヒリするのがとても嫌いだ。その痛みから逃れるために自分の小ささに向かい合うのをどんどん避けて、結局こんなに年月が経ってしまったのだ。こういうのって何というのだったっけ?ああ、「木偶の坊」(こんな漢字なんだ!)って言うんだったな。
gooの辞書によると
でく‐の‐ぼう〔‐バウ〕【木=偶の坊】 の解説
①人形。あやつり人形。でく。② 役に立たない人。気のきかない人。人のいいなりになっている人。また、そのような人をののしっていう語。
語釈はもちろん②の方で。ああ、でも人の言うことにふわっと流れてしまうから①要素が全くないわけではないか(汗)。
気の合いそうな人たちと連むのは楽しいし渇望している所もある。でも自分の「木偶の坊さ」を悟られるのが怖くて人と深く長く関わるのが怖い。結構な年齢なのにこんな事をぐるぐる考えているだから、メンタルがいつまで経っても小学生なままなのだ。
2020下半期は「上機嫌で暮らす」と決めた。自分の木偶の坊さに向き合う作業は痛くてしんどいけれど、何度も経験すればマメが出来て強くなれるかもしれない。ギターの弦を抑える左の指先が最初は痛くても硬く強くなっていくように。やってもできない事もある。元に戻ってしまう事もある。でも何もしなくて「やったら出来たはず」「昔は出来たけどな」と逃げるのは卑怯だ。せめて自分には卑怯にならずに過ごしていこう。
とこんな事を書いていたらギターが弾きたくなった。下手すぎてガックリ来るけどきっとココロには効く(はず)。明日の左指先の痛みは気になるけどギター、出してきてみよう。
....。
運指がうまく行かないのは予想範囲内だったけど声が全く出なくなっていた。こっちは予想のはるか上を行っててガックリ。こちらも「厚く」なるまでやるしかない。体重も生活習慣もギターもどれも早道はないもんだ。
腰の違和感が少し出てきてる(継続すると必ず何か不具合が出てくるポンコツさ!)ので、膝をついて強度を弱めて。それでもお腹にはぷるぷる来る。筋力も一日にして成らず、知らんけど(笑)。