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映画『ジョーカー/JOKER』感想 ラストシーンが突きつける、現代社会での「狂気」と「健常」の混交 【ネタバレ】

Twitterで「『無敵の人(※)』のストーリー」として話題の映画『ジョーカー』を見てきた。私は発達障害の特性上、こういう感情的な刺激の大きな映画を観るとしばらく心身の調子に影響するので、観に行くかどうかしばらく悩んだが、やはり観に行って本当によかったと思う。案の定、数日間めっちゃ調子悪くて仕事も家事もまともにできなかったけれど。

この記事では、映画『ジョーカー』への感想や、私なりの解釈を書き留めておきたい。

※「無敵の人」とは、おそらく2ちゃんねる起源のネットスラング。深刻な貧困や孤立に追い込まれ、失うべきもの・守るべきものを失った結果、善悪や自分の身の安全が全てどうでもよくなってしまった人のこと。こうした人には、犯罪や殺人を止めるための社会的装置がすべて効かなくなってしまう(≒無敵になる)ので、社会を震撼させるような大量殺人などの凶悪犯罪に至ることがある。

※※※以下、ネタバレ注意、見たくない人退避!※※※






壮大なる「空想オチ」

観終わってまず思ったのは、「この映画は『夢オチ』ならぬ『空想オチ』なのかも」ということだった。

私が考えたのは、「この映画のラスト、真っ白な病院の一室で専門家と面談している男(名前すら不明)のみが現実・現在に存在している。いままで観てきたこの映画のシーンはすべてこの男の空想である」という可能性だ。

そういう「空想オチ」であるという前提に立つと、ところどころに挿入されていた短い違和感のあるシーンを、「あとで回収するための伏線」と解釈できるようになって、スッとすべてのピースがはまるように感じられるのだ。

たとえば、冒頭近く、「アーサー」が専門家と面談しているときに挿入される、彼がラストシーンと非常に似通った「真っ白な病院」の一室で暴れている回想シーンらしきもの。私は最初、単に「ああ、彼は過去に閉鎖病棟に強制入院か何かさせられたんだな」と解釈したが、全編を観てみて、「彼は冒頭の回想シーンで1回、ラストシーンでもう1回入院したわけではなく、白い病院での入院は1回なのではないか」と感じた。

であるとするなら、少なくとも「『冒頭シーンからラストの病院シーン手前』までが過去で、『ラストの病院シーン』が最も現在」だとは考えられなくなる。次に考えるのは、「おそらくすべてが現在進行形で、現在、ラストシーンにいる男が、映画で描かれたストーリーをいままさに空想している」可能性だ。

あるいは、最も最後の、「真っ白な病院」の廊下を歩く男が、血に濡れた靴で歩いたかのような足跡を残していくところ。閉鎖病棟の入院着に着替えている状態なのであれば、靴も当然もともと履いていたものとは履き替えて入院患者用のものを履いているはずだ。「ジョーカー」による殺人が現実であろうが、空想であろうが、それがずっと過去のことだろうが直前のことだろうが、「入院患者用の靴が血に濡れている」というのは、現実にはありえない。映画のほとんどすべてがラストシーンの男の空想だと仮定すると、「自分が本当に、靴の裏が血で濡れているような殺人鬼になり、その結果としてここに入院させられているのだったら、さぞ愉快だったろうに」という願いが映し出されているのではないか。

決定的なのは、ラストの真っ白な病院での、専門家とのやりとりだ。心底愉快そうに笑う男に、専門家が「何がおかしいの」と問う。「冗談を思いついた」と彼が答える。「どんな冗談?」と専門家。「きっと理解できないさ」と男、そしてまた心底愉快そうに笑う。

「冗談」は、英語でいえばjoke。そして「ジョーカー」は、英語表記ならjoker。つまり、「冗談を言う者」という意味だ。

つまり、もし私の解釈が正しいならば…… この映画のラストシーン手前までのすべてのシーンは、この男の頭の中だけにある、「愉快な悪い冗談」なのだ。そして、スクリーンのこちら側のわれわれ観客だけが、その冗談を縷々語って聞かされてきたというわけだ。

こういう解釈をしたのは自分だけかもしれないと思ったし、友人のみなが、「これから観に行くところだからネタバレ厳禁!」と言うので、誰とも感想を語り合うことができず、私の思い過ごしかなあ、と思っていた。しかし、今回記事に書こうと思ってググっていたら、同じような解釈をした人がほかにもいた。こちらの方はまた別なポイントを伏線と捉えたりしているので、こちらもぜひお読みいただきたい。

私たちには、「狂気」と「健常」の違いを断言することができない ―悪い夢のような現実

ここで注目してほしいのは、私が上までの描写で「妄想」という言葉を使わなかったことだ。

妄想とは、ごく簡単にいえば「現実にはないことを現実だと思いこむこと」だ。しかし、この男は「冗談を思いついた」と明言している。彼はきちんと、「自分の頭に浮かんでいるシーンは現実ではない、自分の考えが作り出したものだ」と認識しているのだ。

ラストシーン手前までの話がもしこの男の妄想だったなら、彼は「こんなことがあったんだ」と語って、周囲から「違うでしょ」と突っ込まれ、「本当だ!」とか言って激昂するような描写がひとくさりあってもおかしくない。

精神科病院の閉鎖病棟らしきところに入院させられているところを見るに、この男は何かしらそれなりに重い精神疾患があるか、自傷他害などをしたのだろう。ほかのことについて何か妄想症状も抱えているかもしれない。しかし、彼による「ジョーカーの物語」に限っては、妄想ではない。空想なのだ。確かに、おぞましい、狂気じみた空想ではあるけれど。

精神疾患を持つ者は、精神疾患を持つというだけで、気味悪がられ、嘲笑され、何か不都合なことがあれば真っ先に疑われ、何を言っても信じてもらえず、思い込みや妄想で片づけられる、という立場に立たされる。

私もそうだ、私の仲間たちもそうだ。みな、何かの時点で、とても尊厳を傷つけられる扱いを受けてきている。それに正直言って、こうした「精神疾患」が、尊厳を傷つけられることの原因なのか結果なのかそれとも両方なのか、私には断言できない。傷つけられ、病み、さらに傷つけられて、さらに病む。

この男もきっと、数えきれないほどそういう目に遭ってきたのだろう。この空想を、問われるままに口に出して語れば、危険だとか妄想だとか言われて、やたら薬を増やされたり、監視の目が厳重になったりと、ロクな目に遭わない。少なくとも彼がより尊重されることなど起こりえないし、語ったら語ったで周囲が気味悪い思いをするだけだ。彼がこの空想を語ったとて、誰のためにもならない…… そういったことを、彼はきちんと心得ている。だから彼は黙して語らないのだ。そればかりか、「わけのわからないことで気味悪く高笑いする精神疾患者」という、周囲にとってある意味で処しやすい人物像を演じてみせさえする…… 私は同じ精神疾患持ちとして、そのように解釈した。

私は、そのような彼を「狂気の精神疾患者」と呼ぶことはできない。確かに彼には、なんらかの精神疾患の診断があるのだろう、何かについて妄想があったり、部分的に病識がなかったり(自分が病気だということを理解していなかったり)するだろう、けれど、上記のような繊細さと気遣いを持ち合わせた人間を、「狂気の」と形容して、本当にいいのだろうか。

その場その場で、しかるべき振る舞いを…… 周囲と同じ、「普通」の振る舞いができない人を、「キモい」「危険」「迷惑」「crazy(イカれてる、狂ってる)」と形容し(ストーリーの中でもそんなシーンが繰り返し出てきた)、手慰みに顔を踏みつけるような「健常者」こそが、そんな「勝ち組」たちを量産することでしか回っていけない社会システムこそが…… 「おぞましい狂気にさいなまれている」「悪夢のようだ」とも言えるのではないか。

こうした「システムの狂気」については、こちらの記事に詳しく書いている。(出発点は『ジョーカー』と直接には関係ない、私が幼少期にいじめや虐待を受けた話だが、ストーリーの中で「アーサー」が徹底的に「虐待され、いじめられている」のを見るにつけ、話の着地点がほぼ同じになるのも自然だなと思える)

映画『ジョーカー』は、「現実」と「妄想」、「狂気/異常」と「まとも/健常」の境目を暴力的にひっかきまぜることで、私たちの心をしんと立ち止まらせ、善悪のこととかについて振り返って考え直さざるをえなくする、本当に示唆的な作品だった。

ストーリーの中の細かい点についていろいろ語りたいこともあるのだが、とっちらかるので今回はこのへんで終わりにする。

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