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ずっと探してた友人

SNS上のやり取りで、思い出した言葉がある。

「空性(縁起生)を理解した時には、しばらく会っていなかったけれど、ずっと探していた旧友に会ったような気がする。」

中観についての質疑応答の時、ある先生が伝えてくれた口伝である。

その先生自身の言葉ではなくて、先生方の間で伝えられてきた一つの秘訣なのだそうだ。

筆者が何故この言葉に注意を引かれたのかというと、

空性を説く時には否定対象(実在)の否定を主に説くので、
「無い」「無い」「無い」
が強調されがちになり、当時の筆者も無の方向に理解が傾いていたのだが、
有機的で温かい世界の見方を提示してくれたからである。

「実在するならば見つかるはずのものが、探しても見つからない」「実在は無い」を知るだけでは空性を正しく理解したことにはならず、

我々の心に当たり前のように映っている存在は、映っているように有るのではないけれど、働きを為しているという「縁起生」の部分も知らなければ、

空性を理解したことにはならないと、
先生方は口を酸っぱくしておっしゃる。

「無いんだけど有る」という、
無と有の両方の面から捉えなければならないのだ。

なので、先生によっては法話の内容も、数年前から少しずつ重点が移動してきた。
最初は実体の欠如(我々の意識に映っている「何か」は、映っているように有るのではない)を重点的に細かく例を挙げて説かれ、
最後に「それでも有るんだよ。だって経験するだろう?」と説かれていた先生が、

授業の最初に「ものごとはあるけれど、意識に映っているように有るのではない」と、
順番を変えて説かれるようになった。

昔は、無⇒有の順番。
後は、有⇒無の順番である。

そんな中で、「空性を理解した時には、しばらく会わなかった旧友に会ったような気がする。」という言葉を聴いたのだ。
考え方を変えるきっかけになった、ありがたい言葉である。

その後、今まで読んでいたテキストの意味が、違う意味で現れた。
今考えれば、言葉通りの意味に受け取れるように、心が素直になったような気がする。

「その如く、『名称として名付けられただけ』と説かれた『だけ』という言葉も、名称ではない意味が有ることと、意味が正しい認識主体によって成立したことも否定しないけれど、
名称として名付けられたもの一切が世俗として存在すると示すのでもない。
しかし意味自体の本質として存在することを断つ(否定する)。」
(『正理の海』ツォンカパ著より)

上記の引用は以前から目にしていたが、
「名称ではない意味が有ることと、意味が正しい認識主体によって成立したことも否定しない」
という部分に、あまり注意を払っていなかった。
否定形で書かれていたからかもしれない。

思考方法を変えて再度読み返すと、
「名称のみではない意味は有る」
「名称のみではない意味は、正しい認識主体によって成立している」
という意味になる。

それでも、引用のように記さなければ、
「有る」はそのまま肯定されて読み手の実体視と結びつき、
「正しい認識主体によって成立している」も同様の道をたどって、
結局は実在の方向に舵を切ってしまうだろうと慮って、
言葉を選んで記されたのだろうと想像している。

ほんの少しの言葉で、旧友との邂逅を果たしたような
「無いと思ってたけど、ここにあったんだ」
という気付きを得たわけだけれど、

最近別の意味でも、昔の友人に会ったような経験をしている。

本当はその部分を書こうと思っていたのだが、今日はその前置きで終わってしまった。

探していた友人とは、昔の自分自身であるのだが、

これについては後日にしよう。


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