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母の生い立ち

母方の祖母の生い立ち

 私の祖母は、1909年明治42年生まれだ。出生地は青森か函館かわからない。なんでも、祖母の父親の家系が松前藩の武士らしい。祖母の父親は、青函連絡船の船長をしていて、事故の責任を負って自殺したとのこと。祖母が小学校6年生頃と聞いていたので、ネットで、連絡船だけではなく、船舶事故も調べたがよくわからなかった。
 祖母や伯父が生きているうちにもっと詳しく聞いておけばよかったと思うが、こちらも忙しく、住居地も離れていたので、聞く機会がなかった。
 その後、祖母は母親の出身地である石川県輪島に移り住んだ。しかし、母親もしばらくして他界し、祖母は母親の兄夫婦に引き取られたとのこと。なんでも、祖母は両親のどちらから相続したのかわからないが、相当の資産を受け継いでいた。財産目当てで後見人になったのでは?と母は言っていた。

朝鮮での生活

 祖母は女学校までは輪島にいた。祖母の伯父は、朝鮮にいる親戚の鉱山を共同経営するため、一家で朝鮮に渡ったらしい。
 祖母は勉学も優秀で寡黙で努力家なので、その鉱山の経理を手伝いながら、現地の学校で教師もしていた。
 そこで、働き者という評判だったので、祖父とお見合いで結婚した。祖父は四国出身で、朝鮮ではいわゆる漁業会社を経営していた。結婚後、伯父と母が生まれた。
 これを書くとお読みになる方々が不愉快になられるかもしれないが・・・
 家には、お手伝いさんが6人くらいいて、伯父も母も何不自由ない生活だった。多分、住み込みの従業員もいただろうから、その世話でお手伝いさんがたくさんいたのだと思う。母の幼いころの写真を見ると、暖かそうな毛糸のセーター、フリルのついたスカート、白いハイソックス、レースのついたエプロン、かわいい靴を着けている。伯父は成績優秀で、小学校始まって以来の秀才と言われた。京城中学に進んだそうだ。母は祖父が猫可愛がりしたためか、わがままで勉強はせずに祖父が宿題をすべてこなしていたそうだ。祖父は、達筆で手先が器用で何でもこなし、看板や垂れ幕なども書いていたとのことだ。母は勉強はいまひとつだったが、祖父に似たのか手先が器用で、編み物や洋裁は得意だった。そして、大の映画好き。
 祖父母は面倒見がよく、日本人と現地の人と差別せず、接していた。

そして、終戦

 日本が負けたと知ると、現地の人々は、踊って叫んで喜んだそうだ。祖父母・伯父と母は、自社が所有する船で、帰国できた。現地の従業員が、荷物などを積むのを手伝ってくれた。祖父は、長火鉢の縁の内側にある隙間にお札をびっちり詰め、着物の襟の中にもお札を入れたそうだ。現地の人が、もっと家財や財産を積もうとしたら、祖父が、「いやいや、あとはみんなで分けなさい、帰国したら、実家も親戚もあるから」と言った。
 四国に帰ってきた。何とか、小さい店と自宅がついた家を買うことができたが、食べるものはなかった。お札は役に立たなかったし、親戚も冷たかった。というより、戦中戦後、日本国中が食うや食わずで、人を助けるどころではなかったのだ。それでも、祖母は着物を売ったりして、小さい雑貨店を開くことができた。祖父が精神的にまいって、持ってきたお札は役に立たないと燃やしてしまった。伯父が言うには、後年、新しいお札と交換してもらえたのに、もったいなかったと。
 お人好しで器用な祖父は、何とか商売で食べていくことができるようになった。町内会長やPTA会長もこなした。
 伯父は、帰国後、高校に編入、国立大に入学できた。母は相変わらず、かわいいものが好きで、フリルの洋服が欲しいだの祖母にねだっていたが、無理とわかるとどこからか生地をもらってきて、自分で髪につけるリボンやワンピースなどを作っていた。地味な祖母は、母が少し派手な格好をすると、「そんなソウビレイみたいな格好はやめなさい、ソウビレイは爪も長くして派手な格好で品のない」とよく言っていたそうだ。
 母が還暦を迎えたころ、「宋家の三姉妹」という映画があった。その映画をテレビで見て、母は言った。
 「お母さんが言っていた宋美齢ってこの人のことだったんだ!」
 十数年前に他界していた祖母を思って、母は涙ぐんでいた。聡明な祖母の口癖について、母は還暦で知ることになるとは。
 母は、学校を卒業すると都会に働きに出ることになる。

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deburin
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