恥と理想とセルフイメージ
きのうの続き
になるけど、恥についてもう少し書きたい。
自分にとって今重要だから。考えたい。
私は書きながら考えをまとめるタイプ。
なので、現時点では全く内容も落としどころも決まっていない。
手にまかせる。
恥ずかしいって感覚は、他者の視線を気にしてるから出てくると思う。
基本的には。
見られてると思ってる。それが事実かどうかは関係ない。
思い込みでも機能する。自意識過剰。
「お天道様に恥ずかしくないように」とか
「過去の自分に恥ずかしい」とかもある。
よくわからない世間とか、身近な誰かにどう思われるかを気にするよりは、そちらのほうがまだ、個人的には有用な条件付けの仕方ではないかと思うのだけど、それでも。
恥ずかしいって感覚は、いったいなんなんだろうと思う。
強敵。強すぎる。
恥ずかしいって感覚は、プライド、誇りとも関わってくる。
面子を潰される。顔に泥を塗られる。
馬鹿にしたい、されたくない。
きのうの記事で書いたように、「恥の種類」というものがあって、(恥ずかしさという感覚を全く持っていない人以外は)必ずどの恥を採用するかを決めていると思う。
つまり、どの自分を採用するか。どこにプライドを置くか。
「私はこんな私です」
というセルフブランディングと、それが崩れないようにする努力。
それが崩れた時に、恥ずかしい(メッキが剥がれた)という感覚になるのだと思う。
でなければ、恥ずかしくない。
ノーメイクの顔がばれようがAVの趣味がばれようが職場では厳しい上司なのに家では赤ちゃん言葉とかだったとしても、セルフブランディング、仮面が前提としてなければ、別に恥ずかしくない。ただの「ああそういう顔もお持ちなんですね」というだけ。
でも、ばれようがばれなかろうが、そういう顔はある。
事実として存在する。
人にばれようが、ばれずに一生を終えようが、そういう顔は事実として存在する。
つまり、
「あるものをない」「ないものをある」と言っているのが、私たちの広義の意味でのセルフブランディング。仮面づくり。看板。
つまり、嘘。
つまり、「恥ずかしい」という感覚、感情は、嘘がばれた時に感じるものなのだろう。
さらに言えば、「嘘をついていたことが露呈した」ということについてなのかもしれない。
「嘘をつくような自分」であることの露呈。
人は自分が嘘つきだとは思いたくない。
だから、結構自分を一番最初に騙す。隠す。自分の後ろ暗い欲望をないことにする。
自分に対しての嘘。
例があまり上品ではないが、うんこしない人間はいない。
だから、別に言ってまわる必要はない。
最初から周知の事実だから、別に言わなくても嘘にはならない。
ただ「私はトイレに行きません。うんこはしません」と言っている人(誰も言わないと思うが)、というより言いたい人は、それが「ばれ」たら恥ずかしい。と思う。
「おまえさっきトイレ行ってたやん」とか、しょうもない突っ込みが入ったら、絶対絶命の恥ずかしい状況になると思う。
でも「お花摘んでました」は、嘘すぎて嘘にもなってない。
ファンタジーだ。
最初からファンタジーであることが自明すぎて、崩れるも何もない。
そう言ってる人がトイレに行ってようが、それに突っ込むのは野暮だ。そっちのが恥ずかしい、個人的な感覚ですけど。
ただ、その野暮な人の野暮な突っ込みに、絶対絶命になるのが、さっきも書いたけど「うんこしたことないです」と言いたい人だ。言ってる人ではなく、言いたい人ね。見せたい人。心から。うんこするのは恥ずかしいことと思ってる人。アイドルじゃなくても。
アイドルが、ファンタジーとして「お花摘んできました」という嘘を売ってたとして、それを誰かに「いやおまえもうんこするだろ」と突っ込まれても、「いやそれはするやろ、おまえアホなん?」って思うだけの人も全然いるだろうし、サービスとして、恥ずかしがって「見せる」ことも仕事の一環としてやるかもしれないけど、それと実際に恥じる感覚は違う。
めんどくせー仕事、と思うのと、いやだばれたくない!!!という湧き上がるような恥の感覚は、まるで違う。
ここまで書いてきて、この恥の感覚ってのは二重構えなのかなって思った。
基本的に、嘘がばれる、崩壊する、その可能性を感じた時に感じるのが恥の感覚で、他者の視線が実際介在することは多いけど、必須ではないし本質でもない。
なぜなら、誰にもばれなくても卑しい自分のことをうっすら恥じてしまうことは日常的にあるから。たとえばお会計でケチってしまうとかね。誰にもばれなくても、振る舞いとしては笑顔で奢ってあげたとしても、その内心の自分の葛藤を自分は知っているし、それを恥じている。
それは、自分が自分に持っている期待、規範みたいなものに沿わない自分を自分が見ているからだと思う。ダサい自分、器の小さい自分、せこい自分、ああ恥ずかしい。
でも、だから他人にばれたくはない。ばれたら恥ずかしいと思う。
その自分はよくないものだから、そうではないように見せかけたい。
という嘘。仮面。セルフイメージ。ブランディング。
自分の目が先、他人の目は後。
嘘がばれるということは事実としてある。
言ってることとやってることが違っていた、ということが他人に共有されることは普通に事実としてある。詐欺とか。
でも、「恥」の感覚はそれとはまた違うところから生じるように思う。
言ってることが嘘でもいい、それがばれていてもいい。たとえば先ほどの、アイドルの「トイレ行きません」発言。まあ今はそんなアイドルもなかなかいないと思うけど、イメージね。
本人が、それを理想化、規範化、内面化しているかどうかに本質があると思う。
たとえば「結婚詐欺」という言葉があるけど、職業?「結婚詐欺師」は、詐欺がばれても、あちゃーとは思うだろうけど、それについて心底から恥ずかしいという感覚にはならなさそうな気がする。
でも、普通に結婚して、大好きな旦那さんのために(そして自分のために)、素顔を見られないように常に早起きして必死にメイクをしているような女性の場合はどうだろう。素顔を見られて、「詐欺だ」なんて言われたら、恥と怒りともしかしたら絶望の感覚までもが湧いてはこないだろうか。侮辱と感じないだろうか。
でも、別に、年がら年中すっぴんで、ずっとトレーナー着てて、気軽に太っても別にそんな自分に恥を感じない人もいる。普通にたくさんいると思う。旦那さんに「さ、詐欺」と言われても、うるせえくらいにしか思わない人もたくさんいると思う。
ということで、やっぱり何を恥ずかしいと思うかは、その人がどんな理想や規範を持っているか(あるいは持っていないか)によるし、
どれだけ恥の感覚が強いかは、そこに向かう努力、またはそう見せかける「セルフブランディング」努力をどれだけ切迫感を持ってやっているかによると思う。強迫観念的な。
執着。ああ、執着という言葉がぴったりくる。
特定のセルフイメージ(の型)への執着の度合いによって、総合的な恥の感覚の強さって変わると思う。
もちろん外圧によっていつのまにかそうなっちゃってる人がほとんどだと思うけど、とにかく必死で自分のイメージを守ろうとしているって話。裏返すと、こうありたい、こうじゃないとダメって思い込みが強い。ばれたら死ぬくらいに思ってる場合もあると思う。
でも、隠したところで別の顔もあるわけですから。
少なくとも「それだけ」ではないですから。
ギャップ。
この理想とのギャップがな、「伸びしろ」って風に解釈されることも多いと思うんだけど、普通に苦しいよね。
苦しくない?私は苦しいんだけど。
嘘をつきとおそうって努力、ほんと薄暗い感じがして気持ち悪い。自分のことをずっと誇れないし。
ここで言う「誇れない」はそれでいいって思えないって意味ね。オーケーを出せない。いやだいやだいやだそれじゃダメだって思ってるから、必死でそうじゃない部分を隠そうとするし、理想に向かって息切れしながらも走り続けないといけない、と思い込んでる図。
だから、別にどっちがいいって話でもないんだけど、今苦しくて苦しくなくなりたいなら、セルフイメージの方を下方修正して現実の生身の自分に近づけるか、必死に努力して理想の自分に近づくかして、ギャップを、距離を縮める他ない。
ただ、理想は定位置で固定しておかないと、理想まで先に進んじゃって永遠にたどり着かないゴールを追いかけることになって苦しさも終わらないから、そこは注意点だと思う。やりがち。
めっちゃ長くなった。
まだ書き残してること、まとまってないとこたくさんある(特に「自分に対しての嘘」は深堀り足りない)けど、手と頭が止まってきたのでいったんこのへんで切り上げるとする。
読んでくれてありがとうでした(^^)/
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