性格なんてない。I am not it.
と思ってる。
人間なんてみんな同じだ。
着てる服が違うだけ。
性格というのは、クセだ。パターンだ。歪みだ。その掛け合わせだ。
本質とはあんまり関係ないと思う。
なぜそう思うか、昨日長々と書いた。
でも全部消した。
今はその説明をするテンションじゃない、けどこれだけ書きたいから書いとく。
赤ちゃんの身体は柔らかい。ずっとふにゃふにゃ動いてる。
筋肉に強張りもないし、左右の歪みもない。
生きていくにしたがって、歪みが出てきて、強くなり、それが別の部分に負担をかけ、複雑な歪みの総体となる。
それを私たちは「性格」、「その人らしさ」と呼んでいると思う。
赤ちゃんの時のその人は「その人らし」くないのか。
頑固じじいの偏屈さこそが「その人らしさ」なのか。
私は、赤ちゃんの時点で、その人はその人独自のものを持ってると思ってる。
それが結果的にとてつもなく歪んでしまうだけ。
身体の基本は、内臓はみんな同じだ。
赤ちゃんの時は、差異はあんまりない。(病気とかはあるけど、ここでは病気はニュートラルな状態ではないということを前提に話す。)
でも死ぬときは、人によって内臓の状態はそれぞれだと思う。生まれた時より内臓が綺麗になることはほぼないと思うので、汚れ方、負荷のかかり方、壊れ方ということになる。
それを生きてきた軌跡とか、名誉の勲章とか言ってもいいし、単に恥や葛藤の証拠かもしれない。でも、すべて記録されている。残っている。
あと、冒頭に書いたけど、
性格って、クローゼットの中の服と同じだと思う。
たくさんの服が並んでる。
選び放題だ。
でも、私はだいたい似たような、お気に入りの(定番の)3,4着をかわりばんこで着てる。メインがいて、サブがいるみたいな感じ。
でも、ほんとは別のも選べる。
別の歪み方をした、別の自分。
それがたまに出てくる。自分の知らない自分。否定したい自分。憧れていた自分。嫉妬していたあの人、なぜそんなことができるのか信じられないというような言動ばかりするあの人。のような自分。
自分の中にその服もあるのだ。
別の歪み方の服。
ただ、着慣れていないだけ。
着心地が悪いだけ。
と言っても、自分がいつも着ている定番服だって気に入ってるとは限らない。
引っ込み思案でいつも「大丈夫」と言ってしまう。
反論されるとすぐ切れちゃう。
いつも元気なふりしてるけど、家では無。
優しいって言われるけど感謝してもらえないとずっとグチグチ思っちゃう。
鷹揚に見られるけど責任負いたくないだけ。
とか。
それは、自分の定番の服ってだけ。
お気に入りの服ってだけ。
慣れてて手が伸びる服ってだけ。
そしてその隣には、あなたが嫌いなあの人の服も並んでる。
あなたの中にはその歪みの可能性もある。
そうなれる、そうなってしまう可能性。
ここまで文章を読んできてくれた方は感じてると思うけど、
私はクローゼット(自分)の中の沢山の服(性格、キャラ)、を選択の可能性が豊富で素晴らしいと言ってるわけではない。
「歪みの掛け合せのパターン」が大量にあるだけだと言ってる。
私たちのクローゼットには、頑固じじい服もPTAおばさん服も夢見る夢子服もギラギラ起業家服も一生モブ服も入ってるってことだ。
もちろん成功した実業家や堅実な公務員やスーパーアイドルの服も入ってる。無限にパターンはある。だから逆に、落ちぶれたアイドルの服も。
それが可能性ってことだ。
可能性ってのは、歪み方の可能性ってことだ。
赤ちゃんの身体はふわふわで柔らかい。
身体も心も認知にも歪みはない、とは言えなくてもその人の人生の中で見れば、相対的に歪みは少ないと言えるだろう。
服も着てない。少なくとも厚着はしてない。
ここで言う服(キャラ、性格)ってのは、自意識が着る。
自意識が、こんな自分、という服を必要としてる。
自分を一言で表現できる言葉なんてない。
一枚の服なんてない。
でも記号化された服を着て、記号化された存在になりたがるのが人だと思う。
でもそれは私を表さないし、あなたを表さないし、表せる存在ならその一言、その服で存在を代替できることになってしまう。
I=itが成り立つとき、it=Iが言える、はず。でしょ?
でも人というのはもっとめちゃくちゃで、もっと適当で、もっと厳密な存在だ。
矛盾だらけだし、でもメタ視点で見たら矛盾はなかったりして統合される前から統合していたりする。
パターンで理解するのは楽だし、効率的でもあるし、役に立つ面もある。それはある。否定しない。
だけど、その単純化のせいで零れ落ちてる大量のものがあるよねって思う。
し、零れ落ちてるだけじゃなくて、今度は自分らの目(認識)のほうがその型になっちゃう。
型(歪み方のかけあわせ=性格のパターン)が先で、人間は後。
型が先で、現実(のその人)は後。みたいな。
複数の型のうちのどれに当てはまるだろう?って。
それを遊びでやってる分には、そして零れ落ちてる大量のものがあるっていうのをきっちり認識してる上でなら、それなりに役立つやり方ではあるけど、人間いつのまにか、目的と手段が逆になりがち。
そうなると苦しいよねって思う。
それなしでは生きられないとか、どれに当てはまるんだって必死で考えるような回路になってしまう。そしてそれに当てはまらない現実に圧倒されて、恐怖を感じたり、怒りを感じたり。
最初から、その型(歪み、条件のかけあわせ)は現実とは別のところで作られたものだから、当てはまらなくて当然なんだけど。それを忘れちゃう。自分より型を上に置いて優先してしまうように、容易になってしまう。
だからどうしろってことではないのだけど。
どうしたいかは人によって違うと思うから。
(でも、私は、「あなたはこういう人」とか決めつけられたくないし、自分でも自分に対してそう思いこみたくないし、他人に対してもやらないように気をつけてる。気をつけ、注意深くありたい。世界に対しても)
私がこれを書いてるのは、その大量の服を燃やすためだ。
私が先だ。
裸でも私は存在している。
あなたもそう。
そう言いたくて書いている。
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