「遠くに行くこと」
皆さんこんにちは。Koseiです。
普段は大学生をしています。
今日は「遠くに行くこと」について書きたいと思います。
大学生になってから行動範囲がとても広がりました。第一に大学と実家が離れていて、一人暮らしを始めたことも理由の一つですが、「大学生」というある種の特権を活かして、大学一年生のうちに色々なところに行ったのも行動範囲が広がった大きな理由です。一人で新幹線や飛行機のチケットをサッと買って、色々な所に行けるようになって、本当に日本が狭くなりました。
今はコロナのせいでどこにも行けませんが、一番遠かったのは秋田でした。秋田のバター餅はこの世で一番おいしいのではないかと、雪景色の新幹線の車窓を見ながら感動したのを覚えています。
今回のトップ写真も、東京に行ったときに撮ったものです。
実家が比較的田舎で、東京には修学旅行でしか行ったことがなかったので、東京タワーと六本木ヒルズの展望室に行ったときは、
「ドラえもんで出てくる22世紀の都市は、近いんだなぁ」
と思いました。これまでは知らなかった世界を、場所を移動すれば見ることが出来るわけです。
確かに、当たり前かもしれません。でも、「遠くに行くこと」が自分の「思考の射程距離」を伸ばしてくれるのではないかと、コロナ前の最後の旅行ではっきりと気づきました。東京駅のあの世界の中心な感じも、秋田のバター餅のおいしさも、家に帰ってきたときに、僕の思考を広げてくれたのです。
なぜそう感じるのでしょうか。遠くに行くことがなぜ思考を広げてくれるのでしょうか。おそらくいろいろなところで同じような話がなされているので、独創的ではないかもしれませんが、私は
「自分の今の視点を絶対的なものでは無くしてくれる」
のが、遠くに行くことが思考の射程距離を広げる理由だと考えています。東京駅のはっきりとした情景を思い浮かべられるからこそ、おそらくそこを歩いている人がいて、いろんなことを考えているんだろうという思考ができる。秋田のバター餅の味を思い出せるからこそ、今誰かが感動しているのかもしれないという思考ができる。こんな風に、思考の射程距離が遠くに行くことによって広がっていくのではないかと、今振り返るとそう感じます。
一応言い訳しておくと、これまで物理的に遠くに行ったことがない人が思考が狭いとも考えていません。「遠くに行くこと」というのは主観的なものですから、例えば最寄り駅の隣の駅のイオンに行くことだってある意味遠くに行くことだと思います。(小学校の時に、初めて電車に乗って一人で遊びに行ったとき、遠いところに来たなぁと感じたのも、距離は短いですが、「遠くに行くこと」になるのではないでしょうか。)
高校の体育の先生の口癖が、
「先生は君たちよりいくらか長く生きて、いろんなところに行っている。だから教えてるんだ」
というものでしたが、今なら何となく口癖の裏に隠されたものが分かるような気もします。
ちなみに今日は、慢性副鼻腔炎のせいで出来た鼻のポリープの手術前検査に行ってきました。これも「遠くに行くこと」になるのかなぁ。
では、また次の記事でお会いしましょう。ありがとうございました。