「死刑制度」⑤ 「死ね」と軽々しく言うことに抗議します
倫理観ってなんだと思う? どうもアコニチンです。
今回は、ただの感情論です。「死ね」と友人に言われてキレ散らかした話を「こんな犯罪者は死んで当然だ」という感情とともに冷静にぶちぎれていきたいと思います。その友人にあたることはしなかったので、アコニチンの内部器官が不具合を起こして体調不良になりました。
「死ね」と軽々しく言う人が、私はとても嫌いです。これからその理由について、少し話させて下さい。
死刑の話をすると、こんな犯罪者は死んで当然だ、と他者の死を望む人が現れます。本当にその犯罪者は死んで当然なのでしょうか。本当に、その人の生きる権利を阻害する言葉を投げつけられるのは当然なのでしょうか。当たり前ですが、法律が犯罪者を裁くとき、注目するのは犯罪者の犯した罪のみです。正確には精神状態など責任能力も見ます。何人殺した、どのように殺した、被害者はどんな人か、など罪に対する情報のみが報道されます。これは、正しい司法の在り方だと思います。どんな理由があろうとも、罪を犯したからには裁かれるべきです。しかし、ここで報道を見て、「ああなんて可哀そうな被害者でしょう。こんな犯罪者は死んで当然だ。」と大層情に厚い人が現れます。この情に厚い人は、犯罪者の犯した罪しか見ていないのです。罪しか見ていないのに、人の生・幸福・未来を奪う言葉を軽々しく、正義に酔いながら、吐くのです。犯罪者一人一人の人生を知りもしない見もしない、それなのに全人生を否定するのです。
犯罪者に死んで当然と、心無い言葉を浅はかにも口にするのは、その気持ちは、私にもわかります。被害者遺族からみれば、自分の大切な人を殺した犯罪者は死ぬべきだと思うかもしれないし、死刑制度は死すべき犯罪者を殺す制度ですから、「死ぬべき、死んで当然」の妥当性は否定しきれないと思います。
さて、煮え切らない話をしたところで、本題に入りましょう。「死ぬべき、死んで当然」には妥当性があるが、「死ね」にはまるで妥当性が感じられないという話となります。
文法的なことを言うと、「死ね」は「死ぬ」の命令形です。他者に死を命令する言葉です。まずここから、私は好きじゃないです。ある相手の死を乞い願い、「死ね」と命令する。他力本願すぎると思いませんか。死を願うのなら「殺す」くらいの覚悟と気概をもってほしいものです。相手を殺す覚悟と自分が殺される覚悟をもってから出直してきてください。
なんら法に抵触する行為すらしていないのに、「死ね」といわれるのは心外です。ぴえんです(ぱおん)。ゲームのキャラクターならまだしも、人間の残機は1です。死んだら生き返りません。あくまで冗談だ、そんなに重く受け止めることないだろうと思われる方がいるかもしれませんが、何故相手が自分の「命令」に従わない、相手が冗談と受け取ってくれる、と決めつけられるのでしょうか。自分のその一言が相手を傷つけ、生と人権を侵害し、相手からの信頼を失うかもしれない。その一言は、最悪の場合、相手が死に、自分が殺人教唆したことになるのです。軽薄にも自ら相手との関係を断ち切らぬよう、哀しき言葉を口にせぬよう、、、
人それぞれ「この言葉は言っちゃいかん」と思う言葉はあると思います。あなたなんて産まなきゃよかった、とか。私にとってのその言葉は「死ね」なんだよっていう話です。まあ一般の心優しい方々は、他人に向かって「死ね」だなんて言わないと思うんですけど。あなたが何をしたとしても死を望まれる筋合いはないので、生きていきましょうね。
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