甘き塩、来たれ<Komm, süsser Salz>
「い、ら、な、い」
彼女は塩結晶の中で音節を横に裂く。
「ホーミタイはさすがだね」
彼女は凄い。僕よりずっと年下なのにずっと仕事ができる。
「箸はいらない、みかんはいらない、スマホはいらない、こたつはいらない、雪はいらない、何もいらない」
ホーミタイは透明なクリスタルの中で微笑み続ける。唇と音節を横に裂き、言葉を唱え続ける。否定で空気を満たしてる。それが彼女の仕事。ホーミタイは国が主導しているプロジェクトの重要人物だ。彼女無くして、このプログラムは成り立たないと言われるほどに。しかも彼女は誰よりも早く完全な塩結晶になった。国際的に見てもそんな人はほとんどいない。
僕はそんな彼女の仕事ぶりを見て軽い劣等感を覚える。同時に、こんな有能な彼女がと付き合っていることに優越感を覚える。
僕は朝食を摂りながら、彼女を覆う結晶を磨き続ける。シオミール。出し巻き塩。味噌塩汁。塩鮭。仕事ができない僕は食生活から努力しないと、彼女みたいになれない。早く彼女と釣り合う存在にならないと。
腸内環境を整えるためにシォーグルトを食べようと冷蔵庫を開ける。
「あっ」
冷蔵庫の上段にうさぎ型に剥かれたりんごが置いてあった。二つあって、一つは食べかけ。かじりかけ。ホーミタイが結晶になる前に剥いたんだろう。
「やっぱり、仕事できる人は考え方が違うな」
普通なら甘いりんごなんて食べようと思わないし。そこら辺が凡人たる僕と違うところなんだろう。
「それじゃあ仕事行ってくるね」
彼女の結晶を磨き終わり、出社の準備が済み、玄関で振り返る。ホーミタイはうっすら微笑んで否定に励んでいる。彼女を守るものは硬く剥がれやすい結晶だけで、それだけだ。肢体を眺める。多面的で多角的で痙攣的な美しさだ。
仕事しているだけでこんなに絵になる人って、他にいるだろうか?
よし、仕事、頑張ろう。
☆
九時の就業時間。
九時のチャイムが鳴らなくなって久しい。
九時にならないでくれ、っていつも思うけど仕方ないよね。
塩オフィスの僕たちは立ち上がって朝礼に臨む。
「お塩はようございます!」
円部長が笑顔で塩挨拶する。今日も元気に一杯だ。その元気はどこから来るんだろう。お家に死海でもあるのかな。
「しぉーさす」
「塩はようございます」
「……ぉざす」
同僚たちがカクリ、コクリ、パラリ、と挨拶を返して髪から塩が落ちる。やっぱりそのくらいやらなきゃだめだよね。
「本日も新型チョココロナウィルスの影響で、全国的に甘さが際立っていますが甘染対策怠らないようにしてくださいね。毎朝の検塩と手洗いうがいによる除甘は徹底してください」
「しおっす」
「今朝のニュースで甘染者は全国で千人突破したとのこと。甘染後のスウィート化はまだ起きていませんが、各支社でも数人の甘染が確認されています。甘いものが欲しいな、と感じた人はすぐにスウィート化検査を受けてください。また、昨日展開したPDFファイルに記載された社内周知事項を確認するようにしてください」
「しぉーぅす」
「私からは以上ですが、他に何かある人いますか?」
みんな沈黙。こういう時に、そんな塩発言する人なんていないでしょ。
円部長がなんか言ってる間も花蜜課長と砂藤主任は片手でカタカタキーボード打ってた。僕も軽くメールチェックしてる。無駄なメール多すぎ。
「いないようなので、本日も頑張っていきま塩う!」
塩部長が元気一杯に朝礼を締め括った。あの元気はすごい。やっぱり長年塩マンやってる人は違うんかね。僕にはできそうもない。
ぱらぱらり。
塩が降ってくる。始業だ。みんな頭に降り積もる塩を払わない。僕は髪が痛むのがちょっと嫌だからそっと払う。こういうところなのかな。
「はー、なんとか作成できたな」
ぐぐーっ、と伸びをしてディスプレイを見つめる。
『シオスフィアの冗長ソルト構成について』
午前中に一件、お客さんからの質問があった。僕の仕事はこれに答えること。
何とか知識を総動員して、公式ドキュメントやナレッジベースを読み込んで回答を作成した。それを上司の砂藤主任にチェックして貰う。
『お忙しいところすみません。砂藤さん、回答が作成できたのでチェックをお願い致します』
かたかた、ぱらん。
社内チャットで主任にメンションして、チェックを依頼。キーボードに積もった塩が舞う。
はー……。疲れた。糖分が欲しいな。いや、駄目だ。そんなんだからいつまでも仕事ができないんだ。
缶塩コーヒーをちびちび飲んでいると、後ろから話しかけられる。
「トラキオストミーさん、さっきの回答案なんだけどさ」
砂藤主任がマスク越しにぼそぼそ言った。
「あ、はい。なんでしょうか」
「あれ、全然しょっぱくないよ。やり直してくれる?」
「……はい」
砂藤主任は言うべきことは言ったからね、という態度でデスクに戻っていった。
しょっぱくない、かあ。
僕は仮想塩化製品のテクニカル塩サポートしてる。営業からこの仕事を紹介された時は、うれしかった。今まで塩製品の保守対応ばかりだったし、期間限定のキッティング作業が多かったから。でもそれも報われたと思った。今回の仕事は技術的により複雑で難しい。つまり、ステップアップってことだ。これで順調に頑張っていけばサラリーも増えるし、ホーミタイとの将来をより具体的に考えることができる。
かたかた、ぱらぱら。
ただ、砂藤さんは多くを教えてくれない。しょっぱくするって、未だによく分からないんだよな。甘くするの反対でいいのだろうか。しょっぱさをあまさで引き立たせるのだろうか。難しいな。
「ああ、これは全然しょっぱくないですね」
「あっお疲れ様です」
後ろで糖堂さんが言った。いつの間にいたんだこの人。
糖堂さんは僕のチームのエース社員だ。その証拠に、彼の右腕は半ばまで結晶化してる。弊社では初の結晶化が確認された社員で、みんなが彼を頼りにしている。ホーミタイの方がすごいけどね。
「トラキオストミーさん、前も言いましたが、お客さんの懸念と塩分を汲み取った文章を作成してください。それにこの冗長ソルト構成の記述ですが、本当に意味を分かっていますか?」
「すみません。曖昧な書き方でした」
「いえ、曖昧とかではなく。分からなかったら訊いて下さいって言いましたよね? 時間もかかりすぎです。常識的に考えて、自分の分からない部分は有識者に訊いた方が早いですよね? 今まで何をしていたんですか?」
「申し訳ありません。お客さんの回答の意味を考えるのに時間がかかり、それを文章に起こすのに時間がかかってしまいました」
「甘いですね」
ぴしゃりと糖堂さんが言った。
「知識不足です。空き時間に再度勉強することをお勧めします。この質問には私が答えておくので、回答の申請は取り下げて」
「分かりました。あっあっ、すみません。一点質問があるのですが」
「それは社内チャットで訊いてください」
糖堂さんはそう言ってデスクに戻って行った。
僕は社内チャットで質問する。
『しょっぱくするって、甘くするの反対で良いですか?』
ったーん。
エンターキーを叩くと、振動で僕の肩から塩がぱらり。また落ちてしまった。仕事できる人は、エンターキー叩いたくらいでいちいち塩を落としたりしないのにな。うまくいかないね。
結局、その日に糖堂さんからの返事は無かった。
☆
定時きっかりに就業して家に帰る。それにかけては僕は有能だと思ってる。
「ただいま」
「い、ら、な、い」
ホーミタイが微笑で迎えてくれる。テーブルの上にはうさぎのりんごが増えていた。かじりかけがいくつか。
「またりんご食べたの? よく食べられるね?」
荷物を置いて、晩御飯の準備をする。その間も彼女は「I」の音節を唱え、引き裂き、繰り返して空気に放っていた。今日も残業なのかな。大変だ。
晩御飯の塩サンドイッチを食べた後、彼女の結晶を磨く。また結晶の範囲が広がったように感じる。もうこの部屋では手狭かもしれないな。
「ホーミタイは暖かいなぁ」
彼女の結晶は少しぬくい。拭いている手から温度が伝わってきて、そしたらうとうとしてきて、寝落ちしてしまった。テーブルに、かじりかけうさぎが一つ増えていた。
☆
「トラキオストミーさん、ちょっといい?」
次の日、寝過ごして遅刻した僕が慌てて仕事の準備をしていると、花蜜課長が優しく僕の肩を叩いた。花蜜課長は僕に優しく接してくれる数少ない人だ。何回同じ質問しても許してくれる。
そのまま別室に連れて行かれ、開口一番に花蜜さんは言った。
「実は匿名で、君がコンプライアンスに違反しているっていう報告があってねー。調べさせてもらったんだー」
「コンプライアンス違反ですか?」
まったく身に覚えが無かった。どういうこと?
「昨日、糖堂さんに『しょっぱいって甘いの反対ですか』って質問したよね?」
花蜜さんはにこにこ笑っている。
「したよね?」
「あ、はい……」
「うんうん。素直に答えてくれてありがとうねー」
じゃあ、ここにサインしてねー、と彼は書類を僕に差し出した。
「あと、念のためスウィート化検査もしておいてねー」
☆
定時きっかりに就業して帰る。それにかけては有能だと思ってる。
「ただいま」
ホーミタイは変わらない微笑で僕を出迎えてくれた。
「お、か、え、り」
「ホーミタイ?」
彼女は結晶の中で苦しそうに言った。僕は駆け寄って結晶を磨く。舌で舐める。しょっぱい。服を脱ぎ捨てて、全身で彼女の結晶を撫でる。暖かい。ホーミタイは暖かい。
「お、か、え、り」
「無理しないで? よく休んで?」
思うに彼女は少し働き過ぎだった。音節が縦に割れている。僕も早く気付くべきだった。
「お、あえ、あ」
ホーミタイが腕を動かそうとして、結晶にひびが入る。僕はそれを止めようとして結晶を抱き締める。すると、しゅわぁ、と音が鳴り突然力が入らなくなった。両腕を見ると崩れた砂糖菓子になっていた。びっくりしてテーブルのうさぎりんごを口に放り込む。