安楽死その2
本当は、この話は続き書いてまでしたくはなかったのだが。…えらいひっかかることばかりですわね
いくつかネットで出ていること、あげますか。
1.生きる権利と死ぬ権利は同等だ。なんで死ぬ権利も認めろ。
んなわけねえだろ。
「生きる権利を訴えない」でなんとなく人生は無理ゲーいうてそれで楽に死にたいわめいているだけですそれ。
生存権ってのが日本国憲法はある。日本国憲法はそもそも国民主権なので、国民が健全に生きられる権利を保障する。なら死ぬ権利も与えてもいいじゃないか?ってんでしょう。日本国憲法は国を縛るためのもんですよそもそも。それこそが現在の日本においての議会制民主主義を保障しているんです。
そもそも成り立ちで死を同等に認めようとしてたら、当時にGHQは怒り出しますし日本は今もアメリカの占領下だったことでしょう。死ぬ権利なんてもんはないです。
死は美しい?んなわけあるか。死ぬのは大体が怖いわ。生き尽くさんと、なんも語れない。まあ俺とて弱い。死を考えることはないは嘘です。けど、まず生きる権利を叫ばないとしょうがない。特に有事において優先するのは自分とその周りの大切な人の命なんですわ。そんだけ守れる状況を自分なりにでもつくらんとならない。少なくても努力せんとならない。
もしもそれができない状況にされたならば、なら責任者出てこいとわめかないといけない。それがこの国を日本を考えるいうことです。できてないなら責任者のクビとっかえたうえでまた様子見する。
誰か大きな存在を勝手に依存していて自分じゃろくに決められないくせに、少しでもいろいろな観点から決めようとしたい人を勝手に決めつけたうえでただないがしろにしているから日本はおかしくなる。
そのまま、権力にぶら下がっている人に利用されるだけですねこれ。
まず、生きるを優先しないとならない。本当にどうしようもなくなってもまずは忘れろ。忘れても忘れてもそのたびに死にたくなるような傷ってあるかもしれない。けど、動ける限りは生きる、を念頭にして叫んだほうがよろしい。少なくても、そうしないと生きたくても死に瀕しようとしてしまっている人たち(病気持ちとか、怪我とか)に失礼です。人間のエゴだろうが、生きている限りは腹減ります。勝手に飯食わないで苦しみを分かりたいだのにするようには、残念ながらできてないんです。こっちの事情書いていませんが、まあそうそう書く気もないですが飯は食います。
俺はまずは心を使ってありったけで叫ぶ。そのほうがすっきりするから
叩かれても、ぶっ生き返さないとならんのです。マキシマムザホルモン万歳。
2.そもそも京都の嘱託殺人の話は、安楽死とは全然違う
京都の嘱託殺人の話は、最初からおかしいと感じているほうでした。これくらい分かれレベルでおかしい。こんなん安楽死じゃないんです。殺人依頼にすぎません。安楽死という名前借りただけで、ただの欲望の実現でしかない。
安楽死と唱えている人(需要側)と殺人を受託する人(供給側)の関係。そこに死はきれいだって言える余地はない。かかりつけ医師は容疑者と別にいるし、かかりつけ医師と遺族などをおそらくないがしろにしてる時点で極めておかしいと推測できる。
病状は安定していたとのこと。さて、死を依頼したのは確かなんでしょう。しかし、死ぬと一度決めてもいざとなるときにはゆらぐ。ALSなのだから、身動きはしづらい。そこで他人に命ゆだねる。あったことすらあるかどうかだ。ネットだそうだ。
では、死に際して死に顔が果たして安らかだったといえるんでしょうか?僕らはそれ見てないからね。
勝手に体内に薬物注入されてるわけ。もし死にたいから生きたいに変わるとしても変更は不可なわけだ。今更かよでやってしまうとするならば(仮定の話)そこが怖い。
遺族だっておる。納得できなければ、訴える。実際は分からん。ただ、疑われる状況だったから捜査したんでしょうから。
京都府警は八か月の慎重捜査をしたという。そのうえで、安楽死をきちんと否定しています。
僕がひっかかったのも八か月のとこです。そんだけ慎重な捜査をしたいうことは、すでに逮捕するときに証拠はかなりあがっていたでしょう。大久保三代元議員のブログにあったよその記述。
捜査に入る前って、この事件は病死として判断されかけた案件である可能性が高い。
殺人者が殺人だとばれないようにする(安楽死だということにする)にはどうすればいいか、掲示板などで呼びかけてたという。殺人者が罪から逃れるためにって堂々とやってんのやぞそれ
安楽死を希望する人は安楽死を希望する、安楽死を合法的にしようとする方向性での世論喚起を行おうとする。だが病死として判断される。安楽死だとは日本では認められないのだから、そうなる。
死に方の有無がないがしろになっとる。安楽死希望なのだから、安らかになくなったのだろうと世間に思わせる。実際はただの殺人でしかないのに。
楽に死ねたかは、嘘だろう思っとる。他人に命握られて、平然とする人のほうがたぶん少ないんです。身動き取れないってのは、人と違うという苦痛あっても実際は恐怖も大きい。
できることができなくなったときってのはみじめなのかもしれない。けど、赤の他人に勝手に介錯を頼むという概念がまかり通っているほうが、おかしいんです。殺人者は殺人者でしかないです。それ以外、認めない。
まあゆずってだ。死ぬときには別に自分で決めてもいいにしましょう。けど他人に命握られるいうのとは全く別です。
そこ考えないと、尊厳もくそもありゃせん。合法的に殺したーいやっほーで利用したい人にみじめにみられて殺される、って話です。それが仮に一度は被害者が望んだことだとしても、まずはここ考えてもらいたいもんです。
そして繰り返しになりますが、まずは生きづらさを感じていてもできるだけまずは生き尽くせってのは記します。
劣性の人間である僕でもまあ生きてる。まあ頑張ろうぜまずは。
なお、石原慎太郎氏がこの件でなんか言うとります(引用する気すらしない)が、ALSの患者に武士道も介錯もありゃせんので、ありゃいつもの暴言でよろしい。想像力ないじいさんだな以外の感想がない。