「神の正義」は「復讐」?それとも「癒し系」?
今日もイエスキリストを通して表された「平和の神」とギリシャ神話的な「暴力の神」について考えていきましょう。
今回の記事で取り上げたいのは、神の目的はこの世界を「裁くこと」なのか、「回復する」ことなのか、という議題です。イエスはもうすでにこの世を裁いていると言い、暴力的なことを人に向けませんでした。ギリシャ神話が語る裁きはわかりやすいように思えます。白い髭を伸ばしたおじいさんが雲の上から雷を手に取り、人類を見下ろし、今にもそれを地上に向かって投げようとしている絵が目に浮かんでいるのではないでしょうか。ですが、イエスキリストを通して表された神は平和の神でした。
なぜこうも西洋のキリスト教にギリシャ神話がちらほら見え隠れるすのかという疑問にお答えするのはとても時間のかかる作業になると思います。一言で答えるとすれば歴史を学んでくださいとしか言えません。いかに、キリスト教の教えに異教的な文化が混ざってきたかを追いかけていけば自ずと見えると思います。
さて、本題に戻りたいと思います。聖書の神はこの世界を回復さることが目的です。そして、その最大の武器が「愛」だというのが聖書の教えです。では、罪人たちはどのようにしたら、もう罪を犯さない状態になっていくのでしょうか?
今日は「応報的」な方法と、「癒し系」な方法を考えていきたいと思います。
応報的正義
応報的な方法はかなり簡単な方法のように思えます。それは「恐れ」を用いることで、人の行動を制限すればいいわけです。罪を犯せば罰です。犯罪を犯せば死刑です。この単純な法則を植え付ければいいわけです。そして暴力によってその暴力を制御していくことが応報的正義です。この考え方で、犯罪率を下げることは可能でしょうか?人が罪を悔い改めて癒やされることはあるのでしょうか?疑問の残ることだと思います。
では癒し系(修正的正義)はどうでしょうか、考えてみましょう
修正的正義(癒し系)
今回は実例として「キッチナーの実験」を取り上げてみましょう。
「キッチナーの実験」
1974年、カナダのオンタリオ州で2人の少年が酒に酔って22件もの器物を破壊しました。この事件を担当したのが、メノナイト教会に属する2人の保護観察官でした。彼らは加害者の少年たちをただ収監しただけではありませんでした。この少年たちに、被害者と対面させることを提案し、裁判官はこれを許可します。これはとても異例な出来事でした。少年たちはメノナイト教会の保護観察官に付き添われ、被害者の家を直接訪問し、謝罪と損害賠償の話が行われました。このことによって、少年たちが再び罪を犯すことはなく、被害者の満足度も大きかったと言われている。
もちろん、被害者の方を守るための収容やある程度の賠償は必要です。ここでのポイントはいかに犯罪者が二度と犯罪を犯さなくなるかということです。以下に、応報的正義と修正的正義の二点をまとめま
刑罰代償説が語る「暴力の神」はとても応報的です。罪人を殺したくて仕方ない神を描いています。しかし、聖書が語る神、イエスキリストを通して表された神はとても癒し系です。この世界を癒したいと今日も熱心に思っておられるのです。