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相手を洗脳させようとする刑罰代償説支持者

刑罰代償説を擁護するために、全く論点の違う話題を上げる人がいます。

そういった人々に皆さんが騙されないために今回も奇抜なタイトルをつけてしまいました。少しでも皆さんの目に止まれば幸いです。さて、今回は刑罰代小説を擁護する人々が用いる論法を考えてみましょう。これは、いくつかのトピックにわたって話せる内容だと思います。

「刑罰代償説は正統な教えではない」という意見は歴史的な見解を用いて支持されています。つまり、11−12世紀ごろになるまで、刑罰的な神論(神とはどのような性格かという学び)が確立することはありませんでした。以前もお伝えしたようにアンセルムスが満足説を11世紀の終わりごろに提唱して以来、刑罰的な神論が展開されていきます。

これに対する反論として「いやいや古くからありました!」というトピックが飛んできます。そして、「刑罰的な神を語っているように解釈できる文献」を持ち出して反論を展開してきます。しかし、この論法は間違いです。少しわかりやすく比べてみましょう。

刑罰代償否定派:「公式な神学論文」をもとに確立された時期を提供する歴史神学
刑罰代償賛成派:「なんとでも解釈できる文献」をもとに可能性を述べている

この違いはお分かりでしょうか?否定派の人々は歴史的に確立された年代を提供しているだけです。賛成派は「どちらとも解釈できる可能性がある文」を持ってきて「ありましたよね!」と言って選択の余地を与えないような精神状態のようです。これはただ単に、「古代の文脈を自分の文脈に合わせているだけ」の洗脳的な手法です。公式に確立された論は確立されていますし、非公式のものは非公式です。現代で新しい論理ができたからといって、古代の人々の言葉尻をとり無理に自分達の理論に嵌め込むのはとても傲慢な手法に見えます。

さらに、古代の文献をしっかりと学ばれているキリスト教は教派は正教会のはずです。その正教会が刑罰代償説を公式としていないのであれば、古代の人による古代の文献の解釈は「刑罰代償説が正統ではない」ことの現れです。

皆さんもぜひ自分でお調べになってください。それと同時に、安直な論法や、皆さんを洗脳したい方向性に導こうとするペラペラの論理を語る人を簡単に信じないようにしてください。

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