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日本語表現法 本の紹介

この記事では図書館で見つけたイエス・キリストに関する本を3冊紹介する。

超図解 一番わかりやすいキリスト教入門

1冊目は月本昭男監修、インフォビジュアル研究所著の『超図解 一番わかりやすいキリスト教入門』である。図書館の分類番号は190である。


監修の月本昭男はアッシリア学者・聖書学者・宗教学者だ。

この本は、キリスト教文化圏の人々の考え方や、聖書の内容、キリスト教の歴史などを図解で解説しており、全5章からなる。

図が使用されていて現代の世界情勢なども解説されている。

新約聖書の紹介では地図を使い、イエスの人生を分かりやすく説明していた。

聖母マリアのページでは、人物相関図などを用いて紹介されていた。

全ページに図があるため、文章を読むのが苦手でもしっかりと理解することが出来る。

ミュージカルの歴史

2冊目は宮本直美著の『ミュージカルの歴史』である。図書館の分類番号は775.4である。

著者の宮本直美は、1992年東京芸術大学音楽学部卒業、1995年同大学院音楽研究科西洋音楽史修士課程修了している社会学者である。

この本は「なぜ突然歌いだすのか」という疑問を軸に、音楽的特徴や意義の観点からいくつかの作品を焦点化して書かれている。全7章からなり、補遺でナンバー解説もされている。


第1章 歌の世界と台詞の世界では、なぜミュージカルで歌うのかについて書かれており、語れば良い台詞を歌って告げることに違和感を持つ人を説明している。

人はいつ歌うのか
劇(ドラマ)において音楽は必須とも言える。私たちは演劇でもTVでも映画でもアニメでも、特に物語が感情的に盛り上がる場面では、音楽が鳴っていることを当然のように受け止めている。ショッピングモールやレストランのBGMは別として、日常の会話の背後に音楽が鳴っていることなどないというのに、私たちはドラマの背後に流れる音楽に違和感を持たない。それどころか、劇的効果のために音楽がされた場面に出会うと、その沈黙に気づかされるほど、音楽は当たり前のようにドラマに埋め込まれている。
しかし、映像で見ている普通のドラマの中で登場人物が歌ったらどうだろうか。途端に違和感を覚えるだろう。確かに、人間は日常では会話の途中で歌ったりしないのだから、その唐突な行為は驚かれても仕方ない。しかし「日常では」という点から言えば、会話の背後に場面に合ったBGMが鳴っていることもまたありえない。映像ドラマの中でのBGMは自然に受け入れられているというのに、なぜ登場人物が歌うという現象には違和感がつきまとうのだろうか。

1ページ〜

第5章 音楽によるミュージカル革命では「ジーザス・クライスト・スーパースター」について書かれていた。ロック音楽を導入したミュージカルの成功例であり、当時若く無名だった、作曲のアンドリュー・ロイド・ウェバーと作詞のティム・ライスが、ミュージカル内のナンバーである“スーパースター”を先にシングルレコードとして出し、ミュージカルもヒットさせた。この2人は他に「キャッツ」などの有名な作品も作っており、今では世界中のミュージカルファンに知られている彼らが有名になった経緯が興味深かった。
ここにはロイド・ウェバーの曲の構成についても書かれていた。

この作品はイエス・キリストが弟子のユダに裏切られ、十字架に架けられるまでを描いている。ヨーロッパの音楽劇の歴史に沿って言えば、それは受難曲にあたる。このミュージカルは設定を現代に置き換え、民衆に相当する若者集団に勝手に祟められ神へと祀り上げられ、その民衆に裏切られる悲劇と皮肉を、現代的なロック音楽で綴る試みであった。序曲の冒頭からエレキギターのソロが静的な動きながらもロック的な電気楽器の音を響かせる。従来のミュージカルと同様、序曲は本編に登場する音楽のメドレーとなっているが、随所にロックのサウンドがちりばめられている。そして序曲が終わってから始まる最初のユダのナンバーのイントロは、再びエレキギターのリフ(反復)で印象づけられる。ロイド=ウェバーもまた、クラシックからロックまで、多様な音楽ジャンルの技法や様式に精通した作曲家であり、序曲と最初のナンバーですでにそれを実感できる。

122ページ

この作品の2018年のプロモーションビデオがYouTubeで見ることが出来る。現在全国公演が行われており、2024年10月には札幌でも上演される。

説教 最後の晩餐

3冊目は吉村和雄著の『説教 最後の晩餐』である。図書館番号は198.34である。

著者の吉村和雄は、東京大学工学部を卒業、東京神学大学大学院修士課程を修了しており、単立キリスト品川教会名誉牧師である。

この本は8つの場面とあとがきに分かれており、著者の説教が書かれている。

ゲッセマネの園の場面では、マルコによる福音書の引用と著者の解説に分かれていた。イエスが亡くなる直前に言ったとされる言葉が書かれている。

“一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」”

中略

「立て、行こう。」
最後に主はそう言われました。御自分を捕らえに来た者たちのところへ行こうと言われたのです。御自分を彼らの手に引き渡すためです。
このときの主イエスには、もう悩みも苦しみも恐れもありません。すべてを父なる神さまの御手に委ねて、その神さまの勝利を確しておられる。そして御自分を捕らえようとしてきた者たちの手に、御自身をお委ねになりました。
ここに、わたしたちの罪が赦され、わたしたちが神さまのものとして取り戻される道が、拓かれているのです。

75ページ・91ページ

まとめ

以上、イエス・キリストに関する本を3冊紹介した。3冊とも全く違う切り口で書かれていた。

北星学園大学にはキリスト教の本が沢山あり、ジャンルも多岐にわたるため、それぞれの人に合う本が見つかりそうだ。3冊読んだ中で私はこの箇所が特に印象に残っている。

イエスの愛
新約聖書には「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(「マタイ」5章)というイエスの言葉がある。
その愛のもっとも純粋な形は、イエスの十字架上の死である。イエスは神の子であるから自身に罪はない。しかし、人々を哀れみ、その血ですべての人の罪を贖ったのだという。そして、一切の見返りを求めない自己犠牲が究極の愛となる。
苦しむ人がいれば、手を差し伸べずにはいられない。無関心でいることは罪である。この気持ちには大変強いものがあり、難民支援活動などにまで広がっている。

キリスト教入門 47ページ

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