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8月31日、「明日」を願わない君へ

8月31日は若者(10代)の自死が多い日だ、と知ったのは何年か前のことだった。
とても驚いたけれど、その事実には得心がいった。
始業式。楽しいと思えない授業、好きじゃない先生、嫌なことを言ってくる、してくる、同級生。
楽しそうに夏休みの思い出を語る「クラスの人気者」達。
朝が来なければ良いのに、ときっと何度も思ったことがあるであろう、「君」はその日も、そう思い、そして、とうとう本当に朝が来ない場所に行ってしまうのだろう。

「学校になんか行かなくたって良い」と、私は言うことが出来ない。
何故なら、私は学校に通って良かったと思っているから。
小学校6年、中学高校併せて6年、大学4年。16年の「学生」生活において、
楽しい日ばかりでは無かった。初めて希死念慮を抱いたのは、小学生の頃で、毎日が空洞のようだった。中学生の頃も、高校生の頃も必ずしも楽しいことばかりではなかった。
「楽しかった」という記憶が多かったのは、高校3年の1年間と大学生活4年間ほど。ただ、楽しい楽しくない、ということに関係無くこの16年間、何人かの素晴らしい先生にご指導頂く機会に恵まれた。なので私は「学校」そのものよりは、この学生生活を通して私が享受した「教育」に対して、感謝している。
だから「学校に通って良かった」と思っている。
そんな私は、自信を持って「学校になんか行かなくたって良い」とは言えない。学校は、良くも悪くも色々な「知」にアクセス出来る場で、「知識」は目には見えないけれども剣にも盾にもなる。
学問にとって年齢も性別も関係無いけれども、でも、ただただ「学ぶ」ことだけに専念出来る時間は、今から思えばこの学生の期間だけで、とても貴重だと実感している。
小学生の時に図書室で読んだ杉原千畝の伝記が、私に法学部を志させたし、その法学部での学びは「私」という人間の屋台骨になっている。

でも、8月31日に自ら、時間を止めてしまう「君」にとってはきっと、私の話なんてどうでも良いことなんだろう。

「学校になんて行かなくても良い」とは言わない。
ただ、私は、8月31日に自分が10代の時に気が付かなかったことについて少し触れたい。
別に、「君」そのものの価値は学校でのあれこれに左右はされないということだ。
多分、学生にとっては学校というのは自分の世界の全てのように思えるだろうし、事実そういう側面もあるだろう。24時間の約10時間程度は学校で過ごしているのだから。その世界で苦しいこと、辛いことが起きれば、きっと世界は真っ暗に見えるに違いない。私も、小学生の頃はまるでこの先の人生、何も良いことがないかのように感じていた。
でも、繰り返しになってしまうけれども私は、それでも言いたい。
学校で例え、「君」を苛める人がいても、陰口を叩く人がいても、それ等のことに見て見ぬふりをする人がいても、それでも「君」の価値が変わらない。「君」の価値は、そんなもので下げられることはない。
難しいことだ。目に見えない「価値」、しかも人間の「価値」を、どうこう言うことはナンセンスだ。言い方を変えよう。「価値云々考える必要性もなく、存在しているだけで良い」んだ。誰でも。

自信を持つことは、難しい。
傷付けられた自尊心は、なかなか戻らない。
でも、歩幅なんて小さくて良いし、走らなくて良いし、休憩して良いし、いくらでも立ち止まっても良いから、どうかそこにいて欲しいな、と思う。
願わくば、「明日」を見て欲しい、と祈る。