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最果タヒと「ぼく」、それから少し浮奇・ヴィオレタのこと
初めて、最果タヒの著作を読んだ。
どんな作家もそうだろうけれど、あらゆる世代、性別の人間から作品が評価される作家、というものはあまりいないだろうから、例に漏れず彼女の作品についても、きっと好きな人はとても好きだろうし、逆に嫌い、全然好みじゃないという人もいるだろう。
「誰からも愛される」ことは、不均質さの中にしかない「個」を見出し辛くするから、全肯定・全受容出来るものではないだろうな、とは思っているので、私は誰の、どんな形の創作物であっても好き嫌いという(勝手な)感情の対象になるんだろう、と考えている。
少し話が逸れた。さて、最果タヒ。この「コンプレックス・プリズム」を読んで、感情と言葉にとても一生懸命な人、という印象を持った。
文章の巧拙、それ以前に言葉に対し、感情に対し一生懸命な人。
短いエッセイが複数本収録されていて、そこに在る言葉は、彼女が一生懸命に感情を見詰めながら、一生懸命編んだんじゃないか、と思わせられた。
私は、彼女の本業である詩には実は触れたことが無いので、詩を読むとまた別の印象も抱くのかもしれないし、他のエッセイを読むとまた異なる雰囲気をまとっているかもしれないけれど。
いや、でも、今、岩波のwebマガジンで連載されている「愛は全部キモい」に少し目を通した時も、そんな印象を抱いたから、私は少なくともエッセイを読むと、こんな風に彼女は「感情と言葉に一生懸命」という感想を持つのかもしれない。
一生懸命に綴られた(と勝手に感じている)言葉達を読みながら、私はひとつ気付いたことがあった。
一人称が「ぼく」のエッセイがいくつかある。時には「私」から途中で「ぼく」に変わっているものもあった。
一人称が「ぼく」だろうが、「私」だろうが文章に大きな違いがあるようには思えなかった。私は初めて彼女の著作に触れたので、彼女が「ぼく」と「私」を使い分けるスイッチみたいなものも、分からない。(もしかすると、そもそも、一人称については特に触れてはいないのかもしれないけれども。)私は、この「ぼく」という一人称を用いて書かれたエッセイを読みながら、ちょっと安心した。
なるほど、「ぼく」というものは在っても良いのか、と。
何を言っている???となるだろう。ちょっと説明させて欲しい。
私は、産まれてこの方、「私」という一人称以外を使ったことがない。
「私」という一人称でアイデンティファイされたのは「日本人で戸籍における性別は女」だ。
ちなみに、小さい頃から一人称は「私」だった。幼稚園のころ、小学校低学年のころは、自分のことを「(自分のファーストネーム)は、」と呼ぶ子もいたけれど、私はそれもなかった。別に自分の意思でそうしたわけではなく、私の母と母方の祖母に禁じられていたから。良く言えば素直、悪く言えばぼんやりした自分の意思があまり無い、そんな子供だったせいか「何故駄目なのか」という疑問も持たずに、「私」という一人称を使っていた。
でも、周りには「ぼく」という一人称を使う女の子もいたりした。
理由は分からない。ただ、よくよく聞いてみれば彼女達には男兄弟がいる、ということは少し多かった気がするけれど。
言ってしまえば、ぼくっ子だった彼女達も自然と「私」になっていったし、「ぼく」と言っていると先生や、親御さんが近くにいる場合は親御さんに、叱られていた。「女の子なのに」と。
叱られるのは嫌だった。一人っ子なせいか「大人」に見捨てられるのが恐くて、不安で、いつも良い子でいたかった。
だから、私は「私」という一人称を使っていたし、それは今でも変わらず「私」だ。どんな時も。
でも、20歳をとっくに過ぎたころに、ちょっとした不思議なことが起きた。
例えば、考え事をしている時。それから胸中に留め置く程度の独り言を呟いている時。何故か一人称が「ぼく」になっている。
んんんん???おかしいなあ????
今でも、これははっきりしていることだけれども、私は性別違和を感じているわけではない。シス女性だ。
一時、ノンバイナリーであることを疑ったけれどもそうではなかった。
ただ、セクシャリティということを考えた時に、
「非常にデミロマンティック要素が強いクワロマンティックで、ちょっとまだ確信持てないけれど多分パンセクの傾向もあると思う」という感じ。なりそこないかもしれないけれど、女は女だ。
それなのに、まるで水面に浮かぶ気泡みたいに「ぼく」という一人称が自然と、形成されていた。
理由なんて考えることは、していない。多分考えたところで明確に「ぼく」という一人称の発生要因なんて分からないことが、目に見えていたからだ。
ただ、心当たりがあるとしたらあの時期、私は私にとてもうんざりとしていた。小さなことで自分と他人を比較し、勝手に傷付き、被害者面をしてそれが自分でも嫌になるぐらい自覚出来ていた。
私は私が心底嫌になっていて、でも私であることを止めることは出来なくて。未練がましい左手首の一本線を絆創膏で隠しているような、そんな時期だった。(傷は浅くて、今は痕も残っていない。)
だから、きっとどうにかして「私」を私から切り離すことをしたかったんじゃないか、と思う。その方法が、「ぼく」という一人称だっただけなんじゃないか、と。
今でも、「ぼく」という一人称を内心で使っていることは案外多い。「ぼく」という一人称を内心で使っては、「おっと…」と思う。勿論、既に口は勝手に「私」という言葉を象る。何と言うか、ちょっとばかり後ろめたい気持ちになっていた、「ぼく」という恐らくは自己防衛のための一人称に。
そんなわけで、「コンプレックス・プリズム」で最果タヒが「ぼく」という一人称を使っているエッセイを読んで、上述の通り思ったわけだ。
初めて最果タヒの言葉に触れて、内容そのものについてではないことがとても申し訳ないけれど、何だか感情が静かに揺れて、その余韻が心地良いな、と思っている。
ここからは、浮奇ちゃん(NIJISANJI EN所属の浮奇・ヴィオレタ)のことについて、少し。
米国大統領選挙の結果を注視していたのは、米国民に限らずだったと思う。
今、世界で(多分)色々な力と動きの要、そして原動力になっている大国の実権を握る人間を決める選挙。結果は、まあ、うん。
これからの4年間、きっと世界中の色々な国が変わっていくだろうし、変わらざるを得ないだろうし、どこの国も他人事には出来ないと思った結果だった。自国のことではないけれども、複雑な気持ちに苛まれながらXを見ると、浮奇ちゃんのポストが目に入った。
"No matter the outcome, we keep pushing forward with love, resilience, and a vision for a world where everyone is seen, heard, and valued." 💜 pic.twitter.com/DHImJEAQ6c
— Uki Violeta 🔮🌌 NIJISANJI EN (@uki_violeta) November 6, 2024
浮奇ちゃんは、私にとってほぼ初めて身近に感じたセクシャルマイノリティ当事者だ。
勿論、彼はあくまでもVtuberで、直接話せたりするようなことはなく私と彼を繋ぐプラットフォームは各種SNSだけなんだけれども。(ちなみにふーちゃんもバイであることを隠しはしていないものの、積極的に自身のセクシャリティを軸にする発信はしない。)
今、「多様性」という言葉は随分と人口に膾炙されたものになった。
良いことだ。古い考え、偏見に基づいた差別、意味の無い区別が少なくなることを助長する言葉だと思う。
でも、実を言えば必ずしも私はこの多様性という言葉に対し、オープンリーに好意は持てていなかったりする。「多様性」という言葉を使って、ただ可視化されただけの存在、昔から在った存在をただ見える化して、それで満足をしている大多数、その中でも「偉い人達」の自己満の表象のようにも思えてしまうから。
LGBTQ+に焦点を当てた作品も増えてきて、実際に凄く理解が進んだとは思うんだけれども、でも、そういう状況においてどこか「コンテンツ化」されている気がしてしまう。雑な言い方をするなら「見世物じゃない」という気分になる。
そんな、若干ひねくれた考え方をする私にとって、浮奇ちゃんのこの軸も芯もしっかりしていながら、柔らかく、優しいメッセージの発信の仕方は、本当に素敵だと思える。
この世界でジェンダーもセクシャリティも誰かの価値を何一つ決めないし、そんなものでラベル付けされて悲しい思いや辛い経験をする人があってはならない、と思う。
し、それは浮奇ちゃんのオッドアイの瞳が曇らない世界だと思う。