「高校球児の丸刈り」についての考察〔フォーカス【現象の考察】20〕
僕の結論を先に言うと、
「『好み』だよな、んなもん」
である。
“選手自身"および"子供を自分好みの姿にして悦に入りたい大人たち"の。
それ以上でもそれ以下でもない。
ノンフィクション作家の中村計氏(自身も中高時代野球部で、"好んで"丸刈りにしていた)は、機会あるごとに高校野球の指導者に「なぜ丸刈りなのか」と尋ねた。しかし、合理的な回答を得られたことは一度もないという。
実際、今年の甲子園優勝高である慶應高校を持ち出すまでもなく、プロも、メジャーも、オオタニも軒並み「非坊主」。この事実は、「頭を丸刈りにすること」が、野球スキルアップや人格形成そして結果になんら影響を及ぼさない。つまり、
"なんでもない"
との証左としては十分だ。
僕自身も、高一の時野球部だった。当時所属していた部で丸刈りは強制ではなく、やりたい人だけ。
で、僕も周りに勧められて流されるままに坊主頭にしてた時期があった。流されたとはいえ、自分の意思ではあったから「やっぱり嫌だった」といった負の感情はない。むしろ、「丸刈りだった時期があった」という悪くない思い出となっている。
けど、"それだけ"である。丸刈りにしたから今の自分があるわけでも、もっと丸刈りすればよかったという後悔もない。無論、金輪際丸刈りにする気もない。
"当事者"とっては、丸刈りに「思い出」以上の人生的収穫はない。
思うに、
「例え『好み』だとしても、それを『理』のように見せることができるか」
も知性の一つである(東大出身者やら、若き創業者社長やらは、その辺りが本当に巧い)。
高校球児の坊主頭が「好み」ではなく、「理」というなら、知性でもって説明すれば良いだけの話なのだ。
合理的な説明ができないなら、やはり
「好み」
という他ない。
「好み」を「好み」と認めず、「理」としたい。されどそれに適うだけの説明を持たない。そのような"大人の悪あがき"が、複雑な問題のように見せているだけだ。
事は単純なり。
「高校球児の丸刈り問題」とは、
「好みの問題」
である。
(参考記事)