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「聴く力」の本質〔フォーカス【現象の考察】18〕

「聴く力」は、「心の力」。

自分を不愉快にする話に対し、グッと堪える「精神力」。

自分の正しさを相対化できる「精神力」である。


例えば、

「あなた、そこまで"正しくない"ですよ」
「価値判断のつもりですか?"好み"ですよ」
「あなたの都合など、"知ったことではありません"」
「それって、あなたの"感想"ですよね」

といった「自分の"正しさ"と相容れない話」や「自分に都合の悪い話」。

これをスルーしたり、論点をずらしたり、立場・権力の威のまま喚き散らしたりせず、「怒りを抑えて、肯定して踏まえられるか」という心の問題だ。

「相手の話を肯定して踏まえる」ということは、その分「自分の正しさを退ける」ということ。それは、もちろん心地よいことではない。

「お前、"正しくない"」と言われれば、誰でもムッとくる。

しかし、それに堪えられるかは人によって差があり、かつ重要なことだからこそ、「聴く力」を提唱することに意味がある。

「都合の良い話」
「気分を良くする話」
「正しい価値観を否定しない話」

のみをピックアップして、その限りで「聞く」。

そんなことは、誰でもできる。「呼吸ができる人間」と同じ数だけいる。

赤ちゃんも、お母さんの声には反応して笑顔になる。  

政治家も、ワンマン社長も、イエスマンの
話は聞く。

ヤバイ先輩も、暴力コーチも、パワハラ上司も、カエサルも、織田信長も、ヒトラーも、北西の国で暴れている方も、自分の耳に心地良い話をする人は「愛いやつ」として召し抱える。

しかし、それをもって「聞く力」とすること。それは、「呼吸する力」を打ち立てるが如く無意味なことだ。

「聴く力」の本質は、理解力や事理弁識能力にあらず

「自分の"正しさ"を退けられる不快感に堪えられるか」

という「精神力」にある。


ときに、某国には、「自分には『聞く力』がある」とアピールしているお偉いさんがいる。

それが本稿でいう「聞く力」なのか、「聴く力」なのかは「数字」により現れるだろう。

後者であれば、人は信用するはずなのだから。


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