「マジックブルーム幻想」×「掃除をすれば自信がつく」 〔コイネージ【造語の試み】18-2×クリシェ【凡百の陳腐句】26〕
片付け系ブログやビジネス書を読むと、時折
「①掃除をすれば→②自信がつく」
といったロジックに出くわすことがある。
「部屋がスッキリし」、「爽快な気分になり」、「タスクが効率的になる」なら、「掃除というアクション」に対する妥当な効用といえるだろう。
しかし、「自信がつく」までいくとなると飛躍しすぎである。確かに、中にはそういう人もいるかもしれない。しかし、およそ多くの人にあてはまる一般的なロジックとまでは言い難い。
自分の小中学生時代を思い出してほしい。
放課後、教室の掃除をすることで、いちいち自信がついただろうか?
普通に先生に言われたことをやっただけ。学校生活におけるルーティンをこなしただけ。
後の人生まで残るほど思い出ではなかっただろうし、まして「自信がついた」など思いもかけぬだろう。
実際、「日本の子供の自己肯定感は、先進国の中でも突出して低い」と言われて久しい。
日頃、"教室の掃除をしている"のにもかかわらず、だ。
この事実は、「①掃除」と「②自信がつくという心境の変化」の間に、特段の相関関係がないことの十分な証左だ。
僕自身も、恥ずかしながら掃除・片付けは苦手な方。毎年年末になると、大変な思いをしながら、大掃除・大片付けに勤しんでいる。なんとか一通り片付き、綺麗で床に物がない部屋を見ると、スッキリ爽快感と些かの達成感が心に在るのは確かだ。
しかし、「自信」がついた気はしない。
なぜなら、これを繰り返しているからだ。先ほど「毎年」といったように。
翌年、"前年の半分以下の労力で掃除が済むよう"綺麗な状態を維持できれば、多少自信つくかもしれない。
それができていない自覚があるから、「自信がつく」までには至っていないといった事情がある(この点は、…まぁがんばる)。
つまり、
「①掃除をする」→「②自信がつく」
の間の"→"には、「一生懸命やった」「今までできなかったことができるようになった」「そもそもそれが得意」など、自信がつくための、ある種当たり前の要因が含まれるはず。
そこをすっ飛ばし、あたかも「掃除をすること自体に、心に変化をもたらす何かがある」かのように言うから、「飛躍」なのである。
このように、「『①行動』→『②求める心境の変化』間に相当の乖離があるにもかかわらず、論理必然であるかのように思い込むこと」。
これを、「①掃除をすれば→②自信がつく」の事例、ないし掃除の際に用いられるアイテムに象徴させて、
「マジックブルーム幻想」
と呼んでみる。
「箒で掃除したら、魔法のごとく自信がつくはず」といった幻想である。
他にこの「マジックブルーム幻想」、つまり「①『行動』→『②求める心境の変化』に乖離がある」事例を他あげるなら
「①就業前に社訓を読み上げれば→②仕事への決意が固まる」、
「①頭を丸刈りにすれば→②競技に集中できる」、
「①自主憲法を制定すれば→②国民に誇りが生まれる」(最近このロジック聞かないが)、
酷いものだと「①いじめ・体罰に耐えれば→②精神力が鍛えられる」がある(これ言ってるやつ心底軽蔑するが。いずれ「クリシェ」の方で粉微塵に粉砕する所存)。
いずれも"その人次第"の要素が強く、多くの人間にあてはまる一般的なロジックとは言い難い。
もちろん、自分で勝手に「そうなる」と"思い込みひたる"分には無問題だ。プラシーボが望めるかもしれない。
しかし、これを
「他人に押し付けるべきではない」。
掃除(ならびに心境が変わるとされる種々の行動)に対する事情、価値観、性格は人により違う。
「自信がつくから、掃除しなさい!」と"納得させぬまま"やらせて、「はい、わかりました!確かに、自信つきました!」となるわけがない。
そして、なにより
「自分のマインドは、自分が決める」。
自分の頭で考え、"自信をもって"結論を出せる人間ほど、このスタンスだ。
そんな人間は"幻想の押し付け"に対して、こう応えるだろう。
「掃除したくらいで、自信なんかつきません」。
人の心は単純ではない。
(過去投稿した記事の続編兼「クリシェ」との合作)
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