「高齢者は集団自決すべき」〔クリシェ【凡百の陳腐句】23〕
まれではあるが、「高齢者の生命・人権は蔑ろにしてもかまわない」趣旨の発言をする者は、昔からちょくちょくいた。決して真新しいものではない。
僕が受験時代通っていた某予備校の某講師が、雑談で同趣旨の話しをしたのを今でも覚えている(皆ドン引きしていたけど)。10年以上前の話だ。
他にも、某社会派の漫画家が著作で同様のことを述べていた。
そして、洗脳耐性のない一定数の人間(特に若者)は、こんなものでも容易に感化されてしまうだろう。
今も昔も基本的な"構図"は変わらない。
この手のロジックに関し、自分の結論をまず述べるならば、
「否。論外」
の一択である。
理由は単純。
「高齢者のみなさん、日本経済のために自ら命を絶ってください!」と言ったところで、
「はい、わかりました!そうします!」と
"なるわけがない"。
つまり、実質「実現不能」。
仮に、個々の高齢者に向けて「あなたは自決すべき」と言い放ち、これを受けて本当に自殺をしたならば、
「自殺教唆罪」
という、れっきとした
"犯罪"
となる。
つまり、「高齢者は集団自決すべき」の考えは、「実現不能」か、「犯罪行為・反社会的行為」かの二者択一。
ディストピア小説やダークファンタジーの素材として用いるなら、かまわないだろう。
しかし、現実社会における施策としては、
無価値
である。
施策とは、「実現可能」かつ「合憲・合法」なものであってナンボ。
もちろん、人権や反優生思想といった「正論」。
あるいは、「お前の両親にも同じことを言うのか」「お前も歳をとったら自殺するのか」といった「感情論」。
このような「正攻法」のロジックで反論してもいいだろう。
しかしながら、
「金は命より重い」
のロジックは、立論がそこまで難しくない(僕だって、感情的なものを排せば、2〜3視点が思い浮かばないこともない。排さないけど)。
なので、「必要性レベル」、
すなわち「その考えを『施策』として、実現する必要があるか、否か」の争いでは、"性悪エリートの理論武装"には抗い難い場合もある。
(例えば、金の話ではないが、
「お前も歳をとったら自殺するのか」
に対して、
僕なら「うん、するよ」と言って"ウソをつく"だろう。
こんなもの数十年の刻があれば、いくらでもあやふやにできると、タカを括って)。
こういうときは、「許容性レベル」、
すなわち「その『施策』が必要だとしても、実現可能せしめる状況にあるか」のレベルで絶てばいい。
「必要性」と「許容性」の関係性は
「腹が減った。今ラーメンを食べたい気分。だから、ラーメンを食う『必要性』はある」、
「しかし、給料日前で、財布に300円しかない。さらに血糖値も高く塩分を控えなければならない。ラーメンを食える『許容性』がない」
という説明がわかりやすいだろう。
もちろん、「高齢者は集団自決すべき」などという「殺人施策」に許容性があるわけないのは、上に示した通り。
よって、
「否。論外」
で"It's over"だ。
少なくとも、俺は"逆らう気満々"。
この先高齢者になったとき、「絶対に自殺などせん!」と今のうちから宣言しておく。