「マジックブック幻想-読書アピール形態」〔コイネージ【新造語の試み】1-3〕
「本を読めば、それだけで自分は変われる」と思い込む心理。
これを意味する「マジックブック幻想」という言葉を新たに造り、そう呼んでみる。
RPGゲームに度々登場する、使用しただけでスキル取得やレベルアップが果たせる「魔法の書」。これを現実世界に求めるイメージだ。
当たり前だが、本は「道具」で、読書は「手段」。学んだ内容を基にして、思索を深めたり、行動を変えたりしてこそ意味がある。
"読めば自分を変えてくれる"「魔法の本」は存在しないし、未来永劫現れない。自分を変えるのは「思索と行動」のみだ。
…とはいえ、「読書しただけで、自分が変わった気になる」までなら、さほど問題ではない。
読み方が多少不完全だろうと、なにかのきっかけで主体的な読み方を会得できたならば、それまで読んだ内容はそのまま活きるだろう。
どこぞの「読書礼賛本」の記述通り、読んだ内容が無意識的に血肉となって蓄積されるかもしれない。
なにより、人に迷惑をかけたり、不快な気分にさせることはない。
なので、多少「幻想」にかかってようが、読書そのものは推奨されてしかるべきだ。
しかし、「マジックブック幻想」が「読書アピール」「読書自慢」にまで及ぶとなると話は違ってくる。
つまり、「本を読めば、それだけで自分は変われる」心理が、ときおり"形態変化"を起こして「本を読んでる自分は、(読んでなさそうな)他のヤツとは知的レベルが違う」と思いこんでしまうことがある。
こうなると少々厄介だ。
この「マジックブック幻想-読書アピール形態」にかかっている人は、例えば以下のような行動をとる。
聞かれもしないのに「本を300冊読んだ〜」と"自己申告"する(実際に言われたことあり)。
「活字は高尚、マンガは低俗」と決めつけ、マンガを読む人を見下す。
会話や仕事の最中に、不正確または不的確な本のコピペ知識を得意そうに挟む。
相手のニーズを見極めずに「俺様的オススメ本」を半強要し、相手が"No,thank you"をすれば不愉快な顔をする。
鬱陶しいことこの上ない。
徒に「信用」を失うだけなので、避けた方が賢明なのだが、なにせ「幻想」。
これまた中々自分で気づけないので、"厄介"なのだ。
なお、「自分が気に入った本」を、単に他人に勧めること自体はなんの問題もない。その場合、相手がその本に興味ないことを前提に、「プレゼンの努力」をすればよいだけの話だ。
ところで、人間はなぜ、カラスやジュウシマツではなく、「ニワトリ」や「ウズラ」にフォーカスするのだろう。
「おいしい卵」を産むからだ。
つまり、重要なのは「卵」であり、「ニワトリ」や「ウズラ」本体ではない。まして、「ニワトリ」「ウズラ」がなにを餌にしているかなど思慮の外か、せいぜい多少興味ある程度だろう。
「おいしい卵」を産まないカラスやジュウシマツの餌など"なおさら"だ。
「人間の読書」もしかり。
上述した通り、本は「道具」で、読書は「手段」。
「目的」は?
「本の内容を基に、思索を深め、行動に変化を起こして、価値を創り出すこと」だ。
「コミニュケーションの本」を読んで、会話の仕方を変え、他人と心地よい空間を作り出す。
「ビジネス本」から、より効率的なやり方を学び実践して、利益を上げる。
本に着想を得て、新アイディアやより良いメソッドを創り出す。
つまり、重要なのは、本を基に「なにを創り出したか」だ。「ニワトリ」「ウズラ」における「卵」と同じく、他人はそこにフォーカスする。
「餌」、すなわち「その人がなにを読んだか」にはあまり興味がない。
せいぜいが「参考文献」か「権威づけ」の役割だろう。「総読書数10万冊」「1日10冊読破」と書いてあれば一瞬「おぉっ!」となるだろうが、その程度だ。
まして、なにも創れてない人の「読んだ本」など、「カラスやジュウシマツの"餌"」に等しい。
なのに「本を読んでる自分スゴイ」とアピールだけされても、相手はただ困るだけである。
「読書しているアピール」に意味はない。あるのは「価値の創出」のみだ。
「マジックブック幻想-読書アピール形態」は忌避の対象である。
(2022/2/20・6/8に投稿した記事の続編)
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