幸せの土台
人間はみんな、人の役にたちたいと思っているらしいとは聞いていたけど、最近
えーーほんまや!まさか、自分もそんな気持ちがあるとは!とびっくりした。
ちょっとなんでそう思ったかは、覚えてないんだけど
へー、私も人の役にたちたいというのが土台にあるんだ…ほんまかいな知らんかった…
ならばみんなもそうなんだ
と思った。
まさか人の役にたちたいと思って生きているなんて誰がそんなことを自覚するだろう。
そんなん、自分どうなん、ほんまかいなと突っ込みを入れてしまう。
自覚して生きてる人は時々、見聞きするけれど
眉唾というか、または遠い存在というか
『あー、そんなふうに思うんだなあ』と他人事に感じていた。
それが、自分に垣間見えたとたん『え、そんなプログラミングが人間にされてるんや』と
『私が知らなかっただけだ』とひっくり返るのだから、傲慢というか、思い込みが激しいというか。
でも、そう思える。
人の役に立つことが人間の生きる喜びの土台だったんだ。がーん。なんかちょっと引くわあ。
それは、決して自己犠牲ではなくて偽善でもなくて(そういうふうに、苦しいイメージがあるから引く)
『自然体』なことなんだろう。
それにビックリした。
自然が遠い。
垣間見ると、あ、自然!人間の自然かコレ!
そうおもった。
嫌なことをやっていると、好きなことが見えなくなる。嫌いな人といると、自分の好きなところが見えなくなる。
嫌なことを小さいことからやめていくと、好きが因数分解されて、自然になる。
自然になると、なにかの役にたちたくなる。
いや、きれいごとはキライだけど
そういうものなんだと、発見したので記録する。