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やりたいことをやってたら、頑張っているように見えるし
行動力に長けた女性が難病を患って寝たきりとなられた。動くのは表情のみで、声を出す事ももう出来ない。
まぶたの動きで、文字をよみとる。その人から、「吉田さんは極めてるね」と言われた。
今しているケアが、自分の好きなことだから良く出来るように見えるのでしょうけど、私はやりたくない事に関しては全く出来ないタイプで、裁縫が苦手なので私はボタンひとつ縫う事もしない、と伝えると驚いておられた。
やりたくない事をやらないでいると、出来ない所は人に見られなくなる。
その他の(ただ単に)出来ることを重ねるので、まるで何もかも出来るくらいに見えるのかも知れない、と思った。
やりたくないことをやらなくても困ることは、もうない。やろうと意識にのぼることもないからだ。
大人っていい。
自由に生きれて最高だ。
けれど、子供の頃はそうはいかない。
やりたくないことも、やらざるをえない空間に入っていたから。
私の持つ、一番古いやりたくないことをやらされた記憶は、3歳のとき保育園で、日差しの強い日に全員で散歩に出たときだ。歩きたくないのに歩かされて、トボトボ歩く。しかし園長の娘さんだけ、すぐ保母さんに抱っこしてもらえる事がとても羨ましく感じたのを覚えている。
4歳の時には、母の日のためにお母さんの絵を描きなさいと四つ切りの画用紙を床に並べられた。書きたくないが、他の子供たちは全員が書いていた(私は困っていた)
画用紙が真っ白のままなのを見かねた保母さんに、手にクレヨンを握らされ、保母さんが背中から私の手の甲を握りしめて、大きな丸を書き、中に目と鼻と口らしき丸を描かれた。
私は無力だった。
その絵が保育園の玄関の壁に一斉に貼り出され、大きく平仮名でかかれた名前が絵の下についていた。
『私が描いたんじゃないのにな』と思った。
保育園も学校も、けっこう頑張って行っていたことを、今なら褒めたいと思う。
その当時は、学校を休みがちな自分を『なまけもの』『無責任』と責めていたけれど、なかなかどうして自分なりに頑張っていたんだ。
人からは見えない形で、みんなそれぞれ頑張っている。頑張っている理由は、自分の周りを観察しだすからではないか。一人の世界からぬけて、社会に合わせだすからだ。
どうも頑張らないといけないようだと察して、そして頑張ることになる。
それなのに、自分なりに頑張っている事では人からは褒められにくく、頑張らずに出来ることを褒められやすい。
なんか、頑張り損だ(笑)
歳を重ねるたびに、頑張れなくなることをよく聞く。
それは『無理をしている』という現れではないのか。
やらなくちゃいけないことを頑張れなくなる、そうなったらもう悲観せずに、したいことして欲しいと思うし、そうお伝えしている。
自分への叱咤激励はもういいではないか
もっと自分に優しくしてと言う。
あまいものたべて