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思い通りに

子供も成人すると、個性が明確に現れてきて
人間性が確立してくる。

親としては
小さな頃の個性とは、えらい変わるもんだなあ
と思う。

人間ってこんなふうに変化するんだ。

自分で自身の変化を見るのは解りにくいから

第三者目線で成長の変化が客観的に見れるのは、好奇心が満たされるような喜びがある。

人間を赤ちゃんから大人までずっと観察できるというのは、親の醍醐味かも知れない。

長女はいま、向かうところ敵なしの
幸せを振りまくアイドル気質になっているが、もともと何を考えているか分からないくらい、感情の流出が少ないお嬢ちゃんだった。

こだわりも少なく、外部からの影響も受けにくく
来た流れには着々と乗れる器用な子で

誰に文句言うことも、自己主張もなく
(ポーカーフェイスではなくて、ホントに無だったんだろう)

頷き、従う『よいこ』だったので
保育園時代から先生方には可愛がられていた。
彼女の笑顔はチビ怪獣たちの中の癒しだったのだろう。

自分の世界のヴェールが厚い子だったのだけれど
(親としては本当に楽チンだった)

なんとなく
スロースターターだったのかなと思う。
じっくりサナギの状態で外界を見ていたのか。

思春期を過ぎて、俄然個性がでてきて
長女は怒りんぼうになった。

家庭不和がそうさせたのかも知れない。

アウトプットに転じたら激しくなった。
身体全体で、隠すこと無い感情が見てとれる。

また外交度がMAXになった。
外面が異様に良くなった。
サナギのときにどんだけ吸収していたのか。
社交スキルが伸びつづける。

稀有なムードメーカーとなったけど
本質的に自分の世界も同時にあるので
世間に流されないでいれるだろう。

しかしまだ20代前半。
彼女が言うには
『私の成長は、ママの思い通りになっている』らしい。

なるほどなるほど。
そう思うのか。
自己を洞察しとるなあ。
確かに
私が成りたかったような、明るい冒険家の女性に育っている。

ママの思い通りなんだ、で受容してヨシとするのか、いや自分らしさなんだと母親の呪縛を断ち切るのか、どう選択しようと無限に楽しみでしかない。

現在、とても大人しくて
老若男女に
なんでもウンウンと頷く次女は
子供の頃は多動だった。

やんちゃくれで
不注意の怪我が絶えず
感情の流出も激しく
うるさくて
自己主張がつよく、こだわりがあった。

ぴゅーん!と行ってドカーンとぶつかって(肉体的にも精神的にも)、ワアワア言って帰ってくる感じだ。

しかし実は、内向的で繊細だったのだ。
子供の頃はガチャガチャして手を焼いていたので全く見えていなかった。

思春期からは、繊細さが前面に現れてきて
ああ、こんなに傷つきやすく生き辛い子だったのか!と驚いた。

感覚過敏で本当は芸術性が優れてるのだけれど、子供の頃の絵や字が下手に見えすぎて(なんでこうなるの?という思いで、型にはめてしまった)
独特の創作を伸ばせなかった。

感受性が一般的でなく、表現もわかりにくかったんだ。

また一番の特徴は優しさで、これは小さな頃から確実に見えていた。
私はまたもや一般的な価値観で見てしまい、優しさは素晴らしいけれど、人生には不利だと、彼女の重荷となるように感じたんだ。

こんなに優しくては強くなるしかない、と空手やスポーツ、課外活動を勧めた。

私は優しさが最大の弱点であるかのように心配してしまった。
心配は毒だ。
ネガティブ母さんは余計なことばかりする。
きっと彼女も優しさを弱さと感じただろう。

次女は他者をジャッジすることがない。

私は世間について「正しさ」を意識する凡庸なところがあるが、次女は世間に対して「間違い」がない。
あるとするならばそれは自分の「間違い」に転じるくらいだ。

たぶん「正しい、間違い」ではなく
自分と合うか合わないか
それだけしかないのかと思う。
生まれながらの平和主義だ。

平成の子供たちはそういう種類の平和主義(世間の正しさの型を持たないゆえに他を尊重できる)子が大変多いと思う。

令和の子供はまたさらに想像の上をゆくのだろう。

本当に子供って
親の思いもかけず
勝手に素晴らしく成長する。


もはや観測だけしている。

自立してしまって、なんにも言うことがナイ。

『早く自立してほしい(そして自由になりたい)』と20代の私が強く願ったとーおりに、私を成長だけさせて、なんにも言わずに私を自由にして、それぞれが自立してくれた。

それこそ、私の思い通りになった。

振り返るとなんだってそう見える。


私の世界よりもずっと
もっと広い感覚で、これからの地球を楽しむんだろうなあ。

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