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自分責めの癖
きになっている人がいる。
ブログを書き始めたので、読んでもらおうと思ってメールしたけれど、返事がなかった人と、メルアドが変わっている人だ。
気になっているのは、自分がブログを読んでもらおう!と思うくらいの人だからだ。
1.5メートルの壁を必死によじ登るような、ちょっと無理そうやけど大人になってこんなに必死になって乗り越えようとするとはな~ってほどの、意を決した末のメール送信だった。
私はめちゃくちゃ人あたりが良いものの、親しい人間関係は作れない。
つまり、広く浅くというあれだ。
見かけ倒しの社交性。
そんな、親しくなり甲斐のない私にも構わずに、ずっとなんやかや声をかけてくれていた二人だ。
もちろん彼ら彼女らは『そうしたい』からそうしていたのだ。
私は、物を貰っても受けとるばかりで返さないし、連絡を貰っても受けるばかりで連絡しない。
普通の人は、嫌になると思う。
(職場で、手作りマスクを私にあげるより他の人にあげた方がいいと面と向かって言われて胸に刺さった。いや間違いなく正解。)
そういう私に『自分がしたいからする』という人は、謎にB型が多い。
B型って、一方通行でも気にならない人種なんですか。
そうして連絡してくれる人は、何年経ってもしてくれる。私は本当に有り難いなあと思う。
そういうふたりが、いざこっちから連絡をとろうとすると、取れなかった…
いや、連絡って
メールだけなんやけども。
仕事では、細かいことでもややこしい事でも、顔を見たことない人でも突然でも速攻電話する。伝える。まず話をする。言い訳臭かろうとしつこかろうと、する。
なので、職場では私は電話好きだと、どこにでも負担に思わないで電話して何でも訊くんやなと思われて、「ちょっとあんた電話して訊いてえや」と頼まれたりする。
けれど
自分のマジ交遊となると、ずっと気になっているのにも関わらず電話をする気になれない。
ぜんっぜんならない。
というか、むり。できん。
メールをもう一回、送ってみることも
それさえもできん。
とりあえず、今度は年賀状やな
と思った。それが5月か6月なので半年は気になり続ける見通しはたてていた。
どないしてんのかなー
世話になったなー
病気かなー
そう思いながら、ダンマリなのである。
意地なのか?
いや、何に意地をはるのか分からない。それよりも照れてんのか?というほうがまだわかる。
けれども、なにより強く思うのは『罪悪感』だ。
例えば愚痴を聞いてもらいたいとか、相手には相手の思惑があるとはわかっちゃいるけど、会いたいと言って会いに来てくれる好意を、物をくれたりする親切を、受け身でしか受けとれなかった私は、今さら自分が連絡を取れなくなってても仕方ないと自分責めを止められない。
好意を受けるたびに、たぶん、小さく自分を責める。そういうクセがある。
そう。いわば、ただの癖だ。
みんな、変なクセがあるだろう。
だから、どってことない。
私は、認めて欲しいとか親切にして欲しいというアクセルと、好意を受けると困るブレーキが同じ圧力で心にあるようだ。
だから、まず返せない。
返す理由が見つからない。
(これっておかしいかな?)
返せない自分に罪悪感がつもる。
なんで好意を受けとると困るのか
それは自己否定が根底にあるからか?
そこらへんは、もう少し内観が必要なようで今は見えてない。
今日は『体癖論』というものを知った。
それは野口晴哉という人が主張した、人間の感受性の癖がその人の身体の重心や肉付き、腰椎の歪みとして現れて分類ができる、というものだ。
それによると、私の自分責め(M質)の傾向は生まれ持った身体つきと繋がるものだということになる。
自己否定をしているならどうにか解消できるのではないかと、理由探しで掘り下げずに、これが自分だ(私の身体だ)と受け入れて、悪い方に見ないでいい風に転換していくほうが建設的かもしれない。
なので、いまの私にできること…
連絡のとれないふたりを思い浮かべて、感謝と幸せを祈ることぐらい。
そうすると、気になる気持ちが軽くなったので、自分自身には効果があった。
あのふたりが、どうかそれぞれ幸せに自分らしく過ごしていますように。
ああ、ほんとに。それなら私連絡とれなくて全然かまわないなー。