鬼滅の刃全巻よみました(追記あり)
駅前のTSUTAYAが12月で閉まる。
わたしの自堕落オアシスを構築する、マンガレンタルが終了する。
話題の鬼滅の刃だけはレンタルできるうちに読んどこう、と思って日参した。
人気商品のため、なかなかレンタルできるタイミングが合わなかったけれど、先ほど晴れて読了した。
最後はレンタルされていなかった22巻23巻の二冊をKindleで買って読んで、やっと人気マンガの全容を私も知ることができた。
話題になっているということで先にアニメのほうをAmazonプライムビデオで見てみたけれど、私はやっぱりどうもアニメは性に合わない。
だいたい5分で読める一話を25分に伸ばすところがもうムリだ。
私は紙面の臨場感が好きなので、アニメの独特の間(ま)が、どおしてもうけつけられない。
小学生の頃から毎週夜7時の『ドラゴンボール』や『タッチ』の、そのマがどーも気持ち悪かった。
漫画原作アニメのテンポの限界は、ドラえもんの一話12分くらいまでではないか。
鬼滅の刃も原作マンガを読んでみるとテンポが早くて、気持ちよく読めた。
たくさんの巻で涙を浮かべてはメガネをとって鼻をかんだ私ではあるが(涙もろい)
勧善懲悪のストーリーそのものは、私はそんなに好きではない。
私たちは小さな子供のころから、勧善懲悪ものに囲まれているけど、それってあんまおもんないなー、と思っている方である。
アンパンマン、戦隊、魔女っ子や少年ジャンプヒーローなどで、世の中には悪がいるという見方は、私の好むタイプはちょっとずれている。
鬼滅の刃で、悪の棟梁であるラスボス鬼が残ったときに、倒そうとする人間チームに対して、もー、なんでそんなにひつこいんだ、死んだ人は災害にあったと思って恨みなど捨てて、それぞれが今ある命を有り難く思って生きればいいのに!とぼやくシーンがあって、そこに感心した。
あ、作者はそんなふうにも思いながら描いたんだ、だよねえ、と。
それで、勧善懲悪ストーリーと十把一絡げにせず、描かれる『鬼』とはやはり古来からの厄災の象徴としても受けとめれるかも?という見方ができた。
どうしようもない厄災により、心を悪に奪われて人間から鬼となったものたち。
戦争や飢餓、伝染病
そういう、人間が戦ってきた『悪』
命を削って、次に繋げて
自分の大切な人たちやその次の命を守るため、絶え間なくつなげてきた『戦い』のバトン
そう思えば、ただ悪と正義の戦いより一歩ひいた見方ができた。(クライマックスでやっとね)
私たち大和民族は徳川幕府がついえるまで『征夷大将軍』などと言って、千年以上『蝦夷地』を征服しようとアイヌなど古来の先住民を北へ北へと追いやった。
インディアンしかり、アボリジニしかり
いまも新疆ウイグル族など
人間は自分たちの恐れや弱さから、他者をしつこく滅しようとする。
そういう戦いを、ある方からは聖戦で
ある方では侵略とみる。
そこらへんのことが描かれる『進撃の巨人』のほうが私の好みには合っているなあというのが、鬼滅の刃を読んだ感想だ。
なんにせよ、社会現象になるほどの流行は良いことだと思う。
小泉政権とか、若貴とか
(古いことしか思い浮かばないけど)
日本の映画興行が塗り替えられる躍進のゆくえを私も楽しみたいと思う。
追記
仕事で疲れてマンガを読み終わってすぐに書いた上記の文章に、時間をおいた翌日の感想を付け足す。
正義と悪の対比については懐疑的な私と
鬼滅の刃の作者の描く、正義と悪は、相容れると思い直した。
そういえば、皆、(細かい登場人物は覚えていないが)
悪として描かれていなかった。
悪の総大将は、一番純粋に描かれていたな、と。
主人公よりも、なお純粋だったのが、無惨なのではないか。
(純粋な登場人物しかいないけど)
ストーリーの登場人物に描かれていた正義が正しすぎて、まっとうに光輝きすぎていて
ちょっと見に対比が強調されていて騙されるというか
悪は駄目よと言わんばかりと
そう受け止め易かったけれど
作者は、悪とは生命のある一面であることを主張し続けていた。
作者はクライマックスでしっかりと明かしていた。
無惨という名の棟梁鬼の目的は、悪の支配ではない。
ただ、生きたかったんだと。
生への執着がとてつもなく強く、その生へのこだわりの前には、他の何もかもが重要ではなかった、ただ、それだけだ。
生への執着が
愛への執着になったって同じことで
無惨が次に生まれ変われば、反転して愛を貫く聖人として千年生きてもおかしくない。
人を殺した鬼は、地獄へ行くと表現されていたけれど
私は地獄はその人の思いが作るものだと思っているので
沢山の人の命を奪ってしまった、と
罪悪感が大きく、償いを欲する人は地獄を作り出すだろう(己の欲するままに)
けれど、心の底から
自分のしたことを受け入れて、yesといって、自分を労いこそすれ、責めるような気持ちがなければ
次回は、また違う体験をしに生まれ変わるのだろうと思う。
それが、存在の拡大の仕方
(経験だけが生の目的)だと思うから。