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またややこしいこと言うてはるで

夜勤あけ、原付バイクで帰ってきた。
雨で体がひえた。

週末からやり取りしていた仕事の話で、私はまた余計なことをフライングしてしまったかも知れない、そしてそれを数人の前に晒してしまって、恥ずかしい、と思っていた。

ひとつひとつ順を追って、打つ手の可能性を(もしも、こうしていたらどうだったろうか?)と、なぞってみたけれど、やはり、そうするしかなかった、これが自分のやり方だ、と、恥は水で洗い流した。

すると、夜勤明けの月曜朝にその事案の連絡がきた。優しい言葉にほっこりした。

たった一言の「こちらが頼んだのに」というようなフォローの言葉で、気持ちをくんでもらえたと感動して、眠気がとび、仕事する気が湧いた。

この不思議。
ご褒美もらったみたいなきもち。
生きるよろこびホルモンでたー

以下に、ややこしいことをかく。

私は昨日、自分がヘマをしたと思ったので、関わる他の人もそう思っただろう、と感じた。

「これこれこういう経緯があったことを、誰にも言えない、理解されない」と拗ねた。

私は『理解されていない自分』を1人で作り上げ、多少の時間のあいだ、脳内の創作に没頭して自分を恥じて、おとしめていた。そして、その自分責めの弁護をするべく、対応をシミュレートして「しかたない、これが自分の精一杯だったのだ」と慰めた。

自分劇場で
認められていない『不完全性』をつくって
認められたいと『完全性』を求めていた。

脳内で!ひとりで!劇団ひとり!

そして、翌日に「わかってもらえていた!」ああもっと仕事したいなと、ホッコリ生きてる喜びを感じる。

…なんのこっちゃない

わたしは不完全性を体験して、だからこそ得られる完全性を味わいたかったのだ。

苦しいときには、苦しみがなくなるのを望んでいる。自分が苦しみを抱えて不幸せだと思っているのだ。

愛されていない、と思っている時には愛されることを望んでいる。愛があれば満たされるのにと思っているのだ。


ひとは、そこからでないと満足することが出来ない。欠乏がないと、満たされる喜びは得られないからだ。

単純に
満たされていることは『当然のこと』として『感じない』からだ。

なんとまあ
不幸を併せ持たないと幸福感は感じないのね…

それは、不完全こそ完全だということか。

それでは、不完全を含まないと完全ではないということか。

さすが、神様
今日も生きる幸せ感じた。ありがとう。

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