ファンタジックな頭
走っていると、前方に
お爺さん寄りのおじさんが前屈みに歩いている。
ずんぐりしている。
下をむいて歩いていたおじさんが、カラスが鳴いた音に反応したのか、ふと顔を上げてぬける秋空へと視線を向けてから振り返った。
私と、目が合う。
私は横を走り抜ける。
ありゃエビスさんやな
と思う。
そのとたん、目先の落ち葉がふわりひっくり返った。
やっぱりそう?
と落ち葉に話しかける。
私の頭はファンタジックだ。
ずんぐりしたおじさんも、エビスさんがちょっと一息して探検しに降りてきていると思うと、人は何時いかなるときも侮れないぞ、と思うし
落ち葉が審判をするようにも思える。
そういうものたちと
世界を共に生きていると思うと
機嫌よく過ごせる。
保育園のとき、昼寝のあとはおやつの時間だった。
お昼寝はとくに好きでもなかったし、オヤツなんて全く記憶にない。
私はいま、昼寝をしてオヤツを食べるのはとても楽しみにできるけれど、保育園のときはなんとも思っていなかった。
いつも決まった時間に与えられるオヤツに感動は無かったんだ。
自分の自由ではないことに
たとえ大好きな食べる事でさえも
強制的、自動的であれば嬉しくないんだ。
保育園は私にとっては、生まれてきて社会の洗礼を受けたような、自分の生命力が萎える時間だった気がする。
小学校での時間割、授業の合間に休憩
給食の準備があって、昼食、掃除
同じ繰り返しに感動もないけれど
給食の配膳の当番でない時には
机を拭いたりする準備を終えて少しの時間が余る。
隙間時間に学級文庫(本棚)の本をこっそり数ページづつ読むことや
放課後にグラウンドに集まった数人でかけっこをすることは、楽しかった。
決められたことではない、自分の自由意思だったからかも知れない。
やることを決められていない時間が、私はとても幸せに過ごせる。
誰かのためでもなく
与えられたものでもなく
自分を自由にすると
脳内で遊びだして
この世は不思議なことになる。
ささいなひとつひとつに意味を持たせて感動する。
あれはこうだ
これはこうだ
太陽が私を照らすだけで、何もかも上手くいくと確信できる。
自分が自分らしく在ることで
大きなやすらぎと、少しの情熱と、ささやかな冷静さでもって、私の調和を得るんだ。