生き辛さに感化されないこと。つよくなる。
ジョーカーという昨年のアカデミー賞を受賞した映画の解説をきいた。(於:岡田斗司夫)
ジョーカーとなる主人公は誤字脱字だらけの文字を書く、いわば障害をもつ者だ。
母親の言うとおりに、人々に笑顔をもたらしたかったけれど、自分が笑顔になるのはピエロとして人々に笑われるためだった。
そこに描かれているのは、社会からむげにされた弱者が更なる弱者を苛めたり、のけ者にするという、断たれることの無い連鎖があり、その結果、最終的に底辺の弱者が行き着く先は、強者への破壊行動へつながるという、社会の有り様を描いている。
連鎖を現すひとつのシーンとして
都市の路頭で生活するストリートチルドレン(社会的弱者)が、さらにジョーカーのようなピエロをバカにする描写がある。
ピエロになり、道化師として笑われることでしか受け入れて貰えない者は、古今東西どこにでも、私達の身の回りに存在する。
なんとなく話が通じないとか空気が読めないとか、立ち回れないから、あいつにはまともに任せられない、と思われ『おまえは引っ込んどけ』と言われるように
『もういいから、おとなしくしとけ』『なにも言うな』そういうふうに、あっちからもこっちからも仲間にして貰えない。
話も合わないし、鼻持ちならないし、メンドクサイ人だから、なんとなく輪の中に入れなくても、もはや仕方ないだろう『ショーガナイヨ』という気持ち、私にもある。苦い気持ちだ。
仲間に呼ばれない人
そんなはみ出し者が、自己の救済のために更に弱いものを疎外する。
虐げられるひとが最終的に行き着く先は、強者である社会を破壊する行為だ。
『なんとなくムカついて』殺人や事件を起こす。
凶悪事件はドラマになるような『複雑な』理由があることは殆んど無く、単純で幼稚な、自分勝手な理由ばかりなのだという。
ヤクザとか犯罪組織の末端には知的障害を持った大人が多数存在しているのは必然的なのだろう。
昔から、そういうどこにも受け入れて貰えないはみ出し者の受け皿となっていたのが、任侠世界なのだから。
実は、最近身近に『どう取り扱えばいいのか解らない若者』の話を聞く。
話を聞く限り、その若者は自分がバカにされないよう虚勢をはって、周囲に知らしめたい気持ちが強いのだろうな、と思う。
弱者に対しては声高く糾弾し、出来る出来ると言いながら、簡単な事も実は困難なのだ。
人が多くなることにイラつきが隠せないのは、本当にコロナを恐れているだけなのだろうか。
ジョーカーのような世情に対してどう向き合うか、身近な若者の取り扱いについて、どう考えるか。
そこに、引きずられないことだと心うちで思う。
いま、その問題に心寄せるべきなのか。
私が話を聞いて心を痛めたり
何かが歪んでいると啓発したり
問題解決に思考を巡らすことに
意味があるのか。
人間社会は『そこ』にどっぷり浸かりすぎて、麻痺している。
見る方向が『そこ(自分の外側)』に囚われ過ぎていないか。
外側をみて、問題だ、なんか自分がイイ人で居るべき、当事者の気持ちになるべきと思うことに落とし穴はないのか。
私は社会問題が好きだった。
だから、いつも悲嘆に暮れていた。
好きな時はいいと思う。好きなことをどんどんしたらいい。
映画を見る喜びも大変素晴らしいことだし
歴史を振り返って問題解決の糸口を思案するのも、大変良いことだと思う。
いまの私自身の立ち位置をみる。
自分のしたいことをみる。
多くの外側の問題は、只今の自分には関係ないのだ。
そういう難しい、けれども自分に実は関係のない問題に、私自身が心を寄せないことが肝要だと思うんだ。
関わりが無いことを幸運に思う。
私自身のリアルな問題では無いことを喜びたい。
そうやって、ひとりひとりが
自分の範囲
自分の立っている、この位置のことだけに心を寄せて
外側ではなくて
自分自身の発する問題のみを
内側から解決する。ひとつずつ自らが自らを平和にする。
それしかこの
おおきな
複雑な広い混沌とした世界の
絡まった糸をほどく方法は無いのではないか。
もしも、自分の仕事や生活に
自分のいまここに
威嚇したり、和を乱したり、自分のやり方を曲げられずに、自分より弱いものを抑えつけることでしか自尊心を保てない人と
もしも、私が関わる状況となったならば
いったいあなたは何をどうしたいの?
どうおもっているの?
それを念頭において接したいとおもう。
自分で『どうしたらいいのか』
その答えが出ることを願って
少しずつ、訊くようにしたいと思う。
推測するに
そういう人は、人からどう思われるかが基準になって、素直な自分の気持ちはとっくに見えなくなっていて『外側に対してどう答えるべきか』を前提に話をするので、質問に答えるもしくは会話自体が警戒態勢を帯びており、質問と答えが噛み合わず、本当の訴えを理解できるほど気持ちを整理してもらうまでに、すごく時間がかかるきがする。
…めんどくさい。
私はそういう関わりを自分がもう欲していないから。
人を手助けすることを自分の役目としてはおらず、人間って強くて素晴らしい、という部分だけを見ていくんだから。
弱者を、目の前につくらないんだ。
どんな人のどんなときも、その一瞬が力強く、かけがえの無い生だなあと感嘆する
そういう見方、関わりかたをするんだ。
生きづらさに感化されない見方を身につけるんだ。
色づく葉を見るように。
悪人極まると善となるという想像もできるし
善い行いには悪が生じるのかもとも思う。