ショートストーリー御伽草子 「かげろう」
ここ、何処だろう。
個室居酒屋のような、お座敷のような部屋が連なっている。でも和室だけではなくて、ケーキ屋さんのようなショーケースで飾られている一角もあった。ここ、何屋さんなの?通路は個室居酒屋にしては広くて、まるで飲食街のワンフロアのよう。
お座敷では10人くらいのリーマンがお酒と料理を前に、肩組みあって騒いでいた。他のお座敷は入口の障子を隙間なく閉め、まるで鶴の恩返しの一場面のような誰かの姿が影絵の如く映し出されていた。
男性か女性かもわからないけれど、水墨画のような障子に滲んだ黒い影は妖艶さを顕著にさせている。
お座敷が目立つ中で、ポツポツと点在するケーキ屋のような店構えが気になる。何故ケーキ屋なんだろう。
ショーケースの上にぽつねんと「坊主」と書かれた札が置かれていた。営業中でも商い中、春夏冬中でも準備中でもない札。なんだろう?
でも坊主という言葉に聞き覚えがあった。
夜の世界の業界言葉で、その日いちにちお客がひとりもつかないことを坊主と呼んでいると。自分から坊主だと発信するのも憚られるだろうに、どんな思いでこの札を出したのだろうか。
というより、坊主という言葉を出すからには夜の世界の人間のはず。そのショーケースから一歩下がったところにいるそのお兄ちゃんが気になり、ショーケースの中のケーキのようなものを見るていで身をかがめて店内の様子を伺うことにした。
お兄ちゃんは辺りをぐるりと見回すと軽くため息をつき、黒いシンプルなソファーに腰を落とし所在なさげに文庫本をめくり始めた。
坊主の理由がなんとなく見えたような気がした。それでも、私はその姿に引き寄せられた。
特別容姿がいいわけでもない、どことなく垢抜けない雰囲気を纏ってるのに、気になって仕方がない。歳は大学生くらいだろうか。話をしてみたい。
でもどう声をかけていいのか分からず、ガラスケースの上から越しにこっそり様子を伺っていた。
どう見ても不審な姿に気づいたのか、「どうされましたか?」と声をかけてくれた。
「あっあの…
これ、綺麗ですね」
ケーキだと思っていたのは、七宝焼でできた精巧な飾りだった。繊細なグラデーションと輝きで、スポンジ生地とクリームを表現していた。
「ありがとうございます…
僕の作品なんですよ」
「こんなに素敵なのができるんですね。
七宝焼って奥深いですね」
こんなに不思議で美しいものがあるのかと、食い入るように見ている私を優しく見守られている気がした。もっと話したい。でも言い出せない。
「僕の作品、もっと見ますか?」
思いを察したように、体を斜(はす)に構え私を受け入れるような仕草を向けてくれた。
ふらふらっとショーケースのある奥に導かれた。
そこにはケーキ以外にもいろんな七宝焼の作品があり、小さいのに存在感のあるアクセサリーも混じっていた。
どうしてこんな繊細な作品ができるのだろう。このひとにしかない感性なのか。何故誰も訪れないの?もったいない。評価されていいはずなのに、誰も気づかないのかな。
ちらりとソファーの前のテーブルに目をやると、分銅を横から見たような形の不思議な物体が散らばっていた。気になってつい凝視してしまう。
「気になりますよね。
ここのフロア専用の通貨なんです」
フロア専用の通貨?
その言葉に戸惑い、返事をできずにいると少し恥ずかしそうな声で応えが返ってきた。
「ここは何でもアリのフロアなんです。
個室居酒屋だったり、風俗だったり。
うちは女風、つまり女性用風俗なんです。でも内容はお客様次第で、お話をするだけでもいいって方もいらっしゃいます。法律さえ守れば、なんでもお応えできますよ」
女性用風俗という言葉にたじろいだ。
でもなんでも応えられるという言葉は魅力的で、とりあえず隣に座ってみたくて黙って頷いた。
先程の文庫本を読んでいた黒いソファーに座り、並んでお兄ちゃんが腰を下ろした。
なんでも応えられると言われても、これだけオープンなスペースで何ができると言うのだろう。
「どんなこと、したいですか?」
答えに窮した私は水面に浮かんで酸素を取り込む金魚のように、お兄ちゃんの顔を上目遣いに見ていることしかできない。言葉が出ない。もっと話したいはずなのに何故。茶色の瞳に魅入られて、瞬きもできず思考も止まってしまった。
「大切なことを忘れてましたね。
お名前を教えていただけますか、本名でなくてもいいので。僕ははるき、春の輝きと書いて春輝です」
「春輝さん、素敵な名前ですね。
私はあいっていいます。ひらがなのあい、です」
「ありがとうあいさん。
女風だと言ったけれど、恋人だと思って接してくださいね。
あと先程のフロア専用の通貨を持っていてください。これが僕たちを繋ぐものになります。どのくらいの時間、一緒にいたいですか?」
「わからないです…時間を忘れるくらい、一緒にいたいです」
「それなら全部渡しておきますね。
あとでまた調整しましょう」
詳しい意味も聞かされないまま、あの分銅を横から見たような形のプラスティック製の小さなモノたちを渡され受け取る。私と春輝さんを結ぶもの…なんてこんなに儚いんだろう。
つと立ち上がった春輝さんは私の手を取り、あの七宝焼ケーキのショーケースの前に連れてきた。
「どのケーキが好きですか?
直感で答えてください」
いちごのショートにフルーツタルト、チーズケーキなどカラフルに並んだ中から、私はザッハトルテを選んだ。艶やかな光沢が私を誘っていた。
「これにします。
食べてしまいたいくらい、可愛いです」
「分かりました。
聴きたい曲はありますか?」
それはすぐに思い浮かんだ。
このお店に来てから頭の中でずっと流れてきたから。直感がそれを教えてくれた。
春輝さんがチップのようなものをどこからか取り出すと、ザッハトルテに差し込み目の前のテーブルに置いた。
まるでオルゴールのように歌が流れる。
──ねぇ どっかに置いてきたような事が
一つ二つ浮いているけど
ねぇ ちゃんと拾っておこう
はじけて忘れてしまう前に
Vaundyの踊り子のMVがずっと心の中で流れていて、初対面のはずなのに私たちのことを歌っているような気がしたのは何故なんだろう。願望なんだろうか。
それでもいい、春樹さんと一緒にいる時にこの世界に浸かっていたい。また先程の黒いソファーに腰掛けた。
「春輝さんに触れていたいです…」
そう言ってただ黙って寄り添っていたけれど、あの茶色の瞳をまた見つめたとき、どうしようもなく胸が苦しくせつなくて、薄いくちびるに私のくちびるを重ねた。
くちびるでくちびるをまさぐるように。
「──あいさんのキスはやさしいですね…」
そっとくちびるを離したときに、そんな言葉をかけられて返事に困った。今まで言われたこともなくて、ましてや初めて会ったばかりのひととくちびるを交わした私は、そんなことができる自分に惑っている。
春輝さん…。
声にならない声を心に満たして、喉元まで溢れてくる想いを伝えられない。
スキニナッテシマイマシタ、ジョフウナノニ…
どのくらい経ったのか、気づくと知らない若い男性が春輝さんにそっと耳打ちをしてきた。
「すぐ戻ってくるから待っててくださいね。必ず戻るから」
私を見つめる瞳に強い光を宿し、あの若い男性とどこかに消えてしまった。
春輝さんのぬくもりを感じたくてずっと待っているのに、帰ってこない。すぐっていつなんだろう。時計の針を巻き戻し春輝さんを引き止めたい。
待てど暮らせど、戻ってこない。
突然漆黒に包まれて、個室居酒屋もあの鶴の恩返しのような障子で閉ざされた部屋も、そしてこの部屋の坊主の札が立てられたショーケースも全て消えてしまった。
座っている黒いソファーとテーブルに乗せられた七宝焼のザッハトルテ、あの無数のプラスティック製の密やかな通貨が残された。
まるで何かから逃れて夜逃げしたように。
今までの光景はなんだったの。
間違いなくこの目で見たのに、霧散してしまった夢の場所。堪らなく怖くなって春輝さんの名を読んでも、何も還らない。
それでも肌とくちびるのぬくもりは消えない。
私はどうやってここに来たんだろう?
さびしんぼうなこころが見せた、かげろうだったのかもしれない。