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目の前にある差別が見えますか?

『VOGUE』からの引用記事です。日本でSNSでのメッセージがきっかけとなり、命をご自身で終えてしまわれた方のニュースのすぐ後に、この記事にある事件がアメリカで起きてしまいました。私にはどちらも「嫌悪感」が根元にあったのでは?と感じる二つの出来事です。

嫌悪感が表に出てきたときに、攻撃に変える人が少なからずいます。嫌なら、嫌いで堪らないなら、離れてしまえば何も起こらないのかも知れないのに。何かを仕掛けずには、いられないのでしょうか。言葉を選ばずに、或いは力任せに攻撃して、どういう結果を求めているのでしょうか。

長い間、私は「好きの反対は嫌い」だと思っていました。単身で生活を始め、勤め先で体を壊して通院が必要になってしまうくらいに、ハラスメントで痛め付けられた時に、初めて「好きの反対は無関心」だと理解しました。とにかく、攻撃してくる相手に対して無関心にならなければ、仕事を成立させられないと実感したのです。例え好きとまではいかなくても、入社してしばらく、仲良く出歩くことがあった相手が掌を返すように態度も何もかも最悪・最低に変えられ、最初は混乱しました。そもそもの話ではありますが、割と出合って初めの頃から「障害者キモい」だのと色々な差別発言を、障害者である私に話していたので違和感があったのです。それでも仕事をしていく上で、そこを掘り下げてしまうとトラブルになりそうだったし、聞き間違いかとも思ったのです。

とにかく、仕事をしなければ自分を養うことが出来ない訳で、例えハラスメントという差別行為が職場で待っているのを解っていても、仕事に行かねばならなくて。細くなった気力の糸をどうにか守り、勤務時間だけでなく休憩時間すら、みっちり仕事で埋め尽くしました。暇を作らなければ、攻撃してくる隙を減らせるだろうと考えました。相手は暇だから、私の一挙一動から、攻撃出来る所を探していましたが。

だけど、明らかに不健康としか見えない自分の変わり果てた姿を鏡で見てしまって、泣き崩れたりもしました。そんな私の事を、更に喜んで外見を貶して攻撃してきました。変えようのない外見を貶されても、そこにいる限りはそのままです。まして、生まれつきの障害を「気持ち悪い」「触ると移る」だの、とても教育を受けてきた大人の言葉とは思えない発言を聞かされるのです。

例えばの話ですが。

もし、私と同じ障害を持つ仲間が「その態度は差別だ!」と集団で暴れたりしたら、どうでしょう?日本でも海外でも聞いたことがないけれど、私たちは腹を立てていない訳ではありません。逃げたり無視してはいても、されたことに対して許している訳ではないのです。

障害者は不幸だ、という理由で殺害された相模原での事件も、我が事として受け止めています。暴動やデモンストレーションもせずに、結末が出るのをを見ていました。

日本は平和、なのでしょうか。「差別を止めろ!平等を、生きる権利を認めろ!」と暴動を起こす人は稀でしょう。だけど、無くならない差別を受けている人が、すぐ隣を歩いている国です。障害を持つ人だけでなく、生まれた場所や性別、出身校、見た目だけでなく細分化されて「そんなことまで!?」と絶句してしまいそうな事で差別されている方もいらっしゃいます。

マジョリティ・マイノリティであったとしても、同じ命を持つ人間です。目に見えていることが、その人の全てではありません。尊重しあって生きられる日は来るのでしょうか。

対岸の火事として見られない、二つの出来事です。

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