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隠された規則『ボーはおそれている』雑感

 『ボーはおそれている』を視聴してからぼんやりと考えていることがある。それはキリスト教の問題である。どうやら映画の中で描かれているボーを縛り付けているものはキリスト教ではなくユダヤ教なようだが、その違いは後々に勉強するとして、このキリスト教的な物語を見た日本人としての私は何か全く馴染みのないものを感じているようでいて、どこか他人事ではないようなアンビバレントな感覚を持った。はたしてキリスト教は私たち(キリスト教徒ではない)日本人と何か関係があるのだろうか。

 キリスト教(ユダヤ教)には明文化されたいくつもの禁止事項があるという。そしてそれは「何々をしてはいけない、なぜならそれは神によって禁止されている」という強い理由によって定められている。神の教えという圧倒的な超越者としての言葉、ここではその規則(現在ではある程度)に従って生きるという強固な生の規範が生まれる。ここに日本人としての私は非常に窮屈なイメージを持ってしまう。

 そんな中、為末大さんのnoteの記事を読んでいてキリスト教と我々日本人の対比について一つの考えが浮かんだ。

 為末さんは日本人の子供が「してはいけないことは何ですか?」という禁止事項の確認ではなく「これをしてもいいですか?」という許可の確認をする傾向にあると語っている。それはルールを誰も教えてくれないし、書かれてもいないからだという。

理由の一つに日本の明記されないルールの多さがあると思います。
禁止されていないのだけれど、やるとそれはやっちゃだめだよと制限されることが多く、それを経験すると次第に子供は「やったら怒られそうなライン」を勝手に想像し、それで自分を抑制するようになります。

「それを禁止する人も、なぜそれを禁止しているのかわからない社会」

 ルールが明記されていないということはキリスト教と非常に対照的である。日本人は誰も教えてくれないルールを小さいころから学び続け、その結果どこにも書いていないし誰も説明できないけれど守ったほうがいいルールというものがぼんやりと形成されていく。この暗黙のルールの厄介な所は明記されていいないが故、その際限がないということではないだろうか。フーコーは規律訓練型権力という概念において、主体がその規律を内面化することで社会の秩序をコントロールする権力を発見した。この規律訓練型権力は近代化した諸国一般に広く見られる傾向だと思うので、日本も例外ではないだろう。しかしそこで差が生まれてくるのが「規律が明文化されているかどうか」ではないだろうか。西洋近代の規律訓練はキリスト教的明文化のルールにおける規律の内面化だった。しかし日本の場合は明文化されていないことにより常に個人が他者や社会に対してその顔色をうかがいながら自分が暗黙のルールをはみ出していないかを常に自問することになる。そしてドゥルーズがいう管理型権力のようにルールを外れたものはインターネットで晒上げされ、さらに暗黙のルールを強化していく。ここではルールが無限増殖してしまう構造がある。自分たちを縛るものを自らが常に拡張し生み出してしまうのだ。

日本社会は安定していて秩序だっています。それは個人が自己抑制をし、また社会が空気という形で同調を迫り、そうしてはめられたタガのおかげで安定をしている。
一方で、個人は自己抑制と空気によって相当に自己を制限しています。幸福度の低さもそこに少しは関係していると思います。

「それを禁止する人も、なぜそれを禁止しているのかわからない社会」

 この暗黙のルールは「空気」と呼ばれている。それはまさにどこにも書いていない無色透明の縛りである。この空気は自己及び他者に対して「「自己抑制を強いられた人は、他者に自己抑制を迫る」傾向」を持ち「誰が悪いというわけでもなく、再生産されてい」くことになる。それにより日本全体を閉塞させる空気が覆う。為末さんはそれが日本社会を安定させて秩序立てていると語っていて、確かにそういう側面もあるかもしれないが、私はこの一見安定している秩序に無限のルールの書き込みという自らへの更なる束縛の加重を感じてしまう。そこでは終わりなき監視と規律訓練が行われるのかもしれない。何も書いてはいない空気を必死に読み続けながら。

 我々にとって唯一明文化された規律とは「法律」だろう。しかしこの法律は罪を犯した場合に刑罰があるという意味でのものであり、個人の実生活の中での生き方における指針のようなもの(倫理性)とは区別される。キリスト教的な禁止事項とはむしろ後者の生き方における規範のほうにより影響を与えているのではないか。そしてむしろこの生きるための指針のようなものこそ、人生において必要とされているのではないだろうか。このように対比的な構造の中で、宗教的基盤にかかわらず我々は一つ共通のルールを共有している。それはグローバル資本主義だ。このルールの下ではその国民性などを抜きにして、全てがある種の競争のルールの上に成り立っている。それぞれの生き方に影響を及ぼす宗教的な側面を主体として宿しつつ、いち個人としてグローバルな共通のルールの中で競い合わなくてはいけない。そこでは果たして「やってはいけないこと」が明文化されている主体とそうでない主体にどれほどの差が生まれるだろうか。同調圧力という空気は常にルールの境界線をどちらかと言うとより厳しい方向に拡張してしまうように思う。するとどうだろう、最低限やってはいけないルールを守ったうえで様々なことに挑戦できる主体と、そうではない主体のどちらにより可能性が生まれるだろうか。しかしそれを深く考えることはまた別の機会に譲りたい。

 さて、ここで今一度「ボーはおそれている」に話を戻そう。確かにキリスト教(ユダヤ教)的な禁足事項は明文化されているのかもしれない。しかしボーにとっても守るべき規範というものは「隠されて」いる。これは日本にとっての空気とは少し違うかもしれないが、しかし何がやってはいけないことなのかが分からず、つねに「おそれて」しまうという構造自体はどこか似ているのではないか。ボーは厳格なキリスト教的教えの元にある哀れな人間なのか、それとも暗黙のルールを読み取り続ける我々のほうがより哀れなのか。我々には最後の審判の日は訪れないかもしれないし、そういう意味では永遠に自分たちの行いが正しかったのか知る日は訪れないかもしれない。だとすればますます我々日本人は空気を作り出して暗黙のルールを増殖させてしまうことしかできないのだろうか。そして暗黙のルールは私たちをどこに向かわせるのだろうか。それは資本主義社会の中でこれからどのように作用してくるのだろうか。それこそが私が映画を見て感じたキリスト教的教えとそこから派生した何とも言われぬ感覚の正体なのかもしれない。

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