安全安心な祭りが作られる

 岩手県盛岡市では毎年8月1日から4日までの間「さんさ踊り」という夏祭りが開催され、主に盛岡市内から広く県内または県外や海外から多くの観光客があつまる。私は初日にさんさ踊りを見に行ったのだが、予想通り多くの人でごった返していた。祭りのメイン会場となるのは中央通りと呼ばれ、盛岡市のオフィス街の真ん中を走る4車線のまっすぐな道路である。この道を端から途中まで太鼓を叩き、踊りながら練り歩くのがさんさ踊りだ。道路の両脇の歩道には多くの人が踊りの行列を見る為に集まり、会社員や学生、お年寄りや子供まで様々な属性の観客が祭りのパレードを眺めている。この通りをこんなにたくさんの人が、そしてこんなに様々な人が集まるのを目にするのはこの4日間しかない。盛岡にはこんなに人がいたのか、どこか遠くから来ている人もたくさんいるだろうなどと考えながらしばしパレードを眺めた。

 踊りはもう十分と感じ、もう一本横に並行している大通りという通りに移動した。この通りはいわゆる飲み屋街である。普段、昼間は開店前の店舗が並び、夜は仕事帰りの会社員や学生たちでにぎわう通りだ。しかし祭り期間にはまた違った光景がみられる。そこには「普段何をしているか分からない人たち」があふれかえっている。いわゆる「ガラの悪い人たち」である。もちろん普段の大通りにもこういった人たちを見かけることはあるのだが、祭り期間中の大通りには、いままでどこにいたのか不思議なほどに集結する。(彼らを一括りにしてしまうことが難しいことはわかるが、今の私にはそこにある差異をとらえられない。)彼彼女らは基本的にさんさ踊り会場には現れず、中央通りの賑わいとは別の賑わいを対照的に作り出しているように見える。

 中央通りで一心に祭りを眺める人たち、祭りに参加する人たち、そこには本当に様々な人がいて普段見ることのないような、出会うことのないような人たちが特別な日に集まっているように感じる。しかしそれは本当だろうか。ここには集まるべくして集まり、この場所に、この光景に含まれるべくして集められた人たちで作り出されたような、目指されるべき「お行儀のよい空間」があるように感じる。もちろんそこには「座らないでください」「立ち止まらないでください」などのルールを破るものであふれているが、そんなものは最初から想定されているもの、それも含みで作り出されている。

 さんさ踊り会場の様子を見て、まさにこれこそが「多様性」であると感じられたり報じられたりするだろう。しかし多様性という言葉を使うことであらゆる人々を表象したことにしてしまい、実はそこに包摂されている対象の外にいる人たちを見ることができていないのではないか。多様性という言葉にはマイノリティや外国人など積極的に共生していく必要があるとされている対象が志向されており、祭りの時だけ多く見かけることになる「普段何をしているか分からない人たち」は予め排除されているのかもしれない。しかし私たちは反社会的であったりガラの悪い「普段何をしているか分からない人たち」と一緒に社会を生きていることを少なくとも否定できない。見たいものと見たくないものは同時に存在しているし、誰かが勝手に見たくないものにしているものたちは、彼らは彼らで見たくないものにされている他者の目線をうまく内面化し、その目線から外れるようにうまく生活している。彼らなりの文化や価値観を守る戦略が働いており、むしろ彼らはうまく空気を読むことで影に隠れて生きることができる。そして祭りは日常の空気をうまく壊し、彼らにも堂々とストリートを歩くことを許す。(誰が許さず、誰が許すのかは深く考える必要があるが)

 さんさ踊りのように祭りの中心となる会場が設置され整備されている「祭り」は、だからこそ大きく名前が知られ誰もが安心して見に来ることができるように行政が主催し管理している場合が多い。そこには必ず祭りの中心があり、中心があるからこそ必然的にそこから外れていく周縁がある。目指されるべき賑わいが作り出され、暗黙的に排除したい賑わいは規制され統制される。今年から路上での出店の条件がより厳しくなったと聞いた。それは何を意図しているのだろうか。誰もが安心して楽しめる健全な「祭り」と関係があるだろうか。


※「誰でも参加できる祭り」としての「さんさ踊り」は本当に誰でも参加できるのだろうか。もちろん権利的な意味では参加できるだろう。しかし「誰でも参加できる」とは目指すべき「多様性」が既に想定されている。「誰でも」の中に含まれていない人たちが必ず存在する。本当に誰でも、たとえ「普段何をしているか分からない人たち」ですら一堂に参加できる、参加してもらうことが目指されるのであれば無害化された祭りそれ自体を目指すべきではない。またきっと、そもそもそのような意味での「誰でも参加できるさんさ踊り」は目指されていないのだろうが。


 各地には様々な規模や内容の祭りがあって、そこではある特別な期間だけその地域にいる全ての属性の人々を一堂に集めて露わにする。民俗学的な用語で広く浸透している言葉に「ハレとケ」があり「ハレ」は非日常、「ケ」は日常とされ、祭りは「ハレ」に当たる。「ハレ」とは「覆いが取られた状態」であり、普段隠されたものが露になることである。このように祭りには本来メインとサブという棲み分けは無く、隠されているもの、隠したいもの含めて全てが一堂に会する。さんさ踊りのように「誰にでも安心な祭り」は普段影に隠れていたものたちを、祭りのメイン会場を整備することによって祭りという「一堂に会する空間」それ自体にもを作り出し二分化することになる。そして両極にはそれぞれに適した者たちが自らを棲み分けるように集う。

 しかしそのような状況でも祭りというものの力は影に生きる者たちを活気づかせる効果だけは失わない。メイン会場が整備され安全になればなるほど、追いやられたストリートはそこに住まうものたちをより活気づかせる。あらゆる目抜き通りの、ライトアップされた通りの、安全に整備された通りから、脇に、いくつも枝状に、つながる暗い路地、飲み屋街、うるさく、汚い、名前のない通り。整備された祭りは道路を封鎖することができる。しかしそれは自らの会場を安全安心に整備するために封鎖する。そこから延びる無数の路地、その全てを封鎖することはできない。整備はあらゆる場所には行き届かない。そして安心安全な祭り会場はあらゆるところに繋がっている、全ての暗い路地裏に。


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