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愚かな自己責任社会よ、さようなら。僕は明日の包摂を考えることにする。

私はこのところ、主に東京の住居喪失者支援の具体的な情報発信につとめてきたのだが(詳細は「コロナ禍で住まいを失う人が相談できる窓口紹介(東京)随時更新中」)、一度やや抽象的かつ基本的な考えをまとめておく必要があると思いこの記事を書いてみた。

そしてこの記事をちょうど書き終えたところで、浅薄なインフルエンサーが極めて愚かな発信をしているということを目にした。それ自体を拡散することが本意ではないので引用は控えるが(というか炎上商法に乗るのが嫌なので見ていない)、危険な思想へ対抗する「考え方の道具」を提示しておく必要があるだろう。以下、読んでいただければありがたい。

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コロナ禍により、貧困が拡大している。

炊き出しや生活相談を行なう支援団体のもとには、これまでにないほど多くの人が訪れ、状況はますます厳しいものになっている。その中には、つい最近まで「困窮」とか「支援」に無縁だったという人も少なくない。

これまで「普通に」働いてきた人の場合、自分が福祉的な支援を受けられるなどと思いもしなかった、ということも多い。住まいを失い、携帯が繋がらなくなっているにも関わらず、Free Wi-Fiを拾って職を探している人もいる。基本的に多くの人が、まずは「自助」でなんとかしようともがいているのだ。当然、政府に言われるまでもなく。

日本では、困窮したときのために、最後のセーフティネットとして生活保護制度がある。しかし、様々な理由から利用を躊躇う人が非常に多い。その背景には、やはり「自己責任論」による呪いがあるだろう。

世界的パンデミックという誰もが予想しなかった事態により、社会は一変した。地震などの自然災害などもそうだが、一人の人間ではどうしようもないことがある。コロナ禍の経験から、「自己責任論」では片付けられないことがある、と多くの人が実感したのではないだろうか。

しかし本質的には、パンデミックがあろうがなかろうが、「貧困は自己責任」という考え方自体が間違っているというのが私の考えるところだ。
いずれパンデミックが収まり、ある程度経済が回復すれば、また日本は自己責任の呪縛に囚われるだろう。それを避けるためには、「では、いかに包摂するのか」という道標を今のうちに立てておく必要があるだろう(もちろん、直面する問題に対応しつつだが、同時に、少し先の、あるべき社会を構想しておくことは無意味ではあるまい)。

1.自己責任論とネオリベラリズム

まず初めに、そもそも「貧困は自己責任」という考えは全く浅はかな考えだということははっきり言っておきたい。
現在の社会システムは、あらゆるものを自由市場に委ねる、ネオリベラリズム的な考えが浸透している。つまり、公的な領域をなるべく少なくし、個々人が自由に市場で競争するという社会だ。しかし、考えなくてはいけないのはその「自由」市場のルールはそもそも強者によってつくられるということだ。そのことは、格差を拡大し、一部の富めるものはより多くを蓄え、貧しいものはそこを抜け出せなくする、階級性を固定するベクトルを持っていると言える。
そうした市場の中での「負け」を以って、「貧困は自己責任」とみなすことは、権力におもねる行為に他ならない。
貧困の要因は多様で、局所的に見ればその原因が個人にあるように見える場合はある。しかし、全体の構造を見ずにそう判断するのは早計である。個別事例や局所的な部分の原因や解と、全体のそれとが同じではないのだ(木を見て森を見ずということだ)。 ホームレス状態はマクロな視点で見れば、社会システムが機能しなかった結果であり、構造的な要因が背景にある。

そもそも、一体どこからが自分のせいでどこからが社会のせいか、なんてどうやって線引きするのだろうか?今の自分のステータスは全て自分の力で成し遂げた結果だと言えるのだろうか?測りようのない指標に基づく考えは、初めから非科学的な感情論に過ぎないのだ。

また、ネオリベラリズム的社会のもとでは、貧困の「救済」はあくまで限定的な措置として周縁部へ押しやられる。階級性を不可視化し、内と外に分け、自己責任で外に出てしまった、いわば「負け」た人に対して、「仕方がないので施しを与え、包摂してあげよう」という構図をとる。当然、そうした救済の対象はなるべく小さく、限定的にしようというモチベーションが常に生じる。結果として、福祉やセーフティネットに関しても、どんどん公的な領域が縮小されていく(憲法では国家が国民の生存権を保障する責務を負っているにもかかわらず、だ)。この傾向はますます強くなっている。
しかし、今般のパンデミックでは、例えば保健所が縮小していることの弊害などが顕著に現れた。さらに、人間を生産性だけで測ろうとする思想が蔓延することで、命の価値や命の選別に関する議論が巻き起こり、まさに生命に関わるところまで来ているのだ(※1)。

さて。
上記の価値観のもと、「敗け」を作り出すことは、果たして全体にとっても良いことなのだろうか?市場的価値だけで人間の価値が図れると思い込み、命の価値にまで侵食してきている思想は、誤解を恐れずに言えばカルトと言っても過言ではない。市場での自己責任による「敗者」をつくり出すことは、ネオリベラリズム自体の存在条件と言えるかもしれない。そもそも、市場的価値だけで人間を評価するというシステム自体が矛盾を孕んでおり、一刻も早く方向転換が必要なのだ。

人類は長い歴史の末に、全ての人間が生まれながらにして生きる権利を持つという考えに至り、国際的な憲章や憲法で高らかに宣言しているのだ。それをいかに実現し得るかを考えることが、人類の挑戦だと言えよう。
これは決して理想論としてだけではないだろう。不公正な状況は争いや差別のタネだ。世界のテロリズムの根底には貧困があるだろうし、何より、暴力の被害に曝されるのは弱い立場の人々だ(例えばホームレス状態の人々は一般に恐れられることがあるが、実際には襲撃の対象となる危険が常に付き纏う)。全ての人がまともに暮らせる社会をつくるべきだということは、弱い立場の人々を守りつつ、社会を保つためのプラグマティックな考え方だとも言えよう。

そこで次に考えなくてはいけないのは、では実際にどのような「包摂」があり得るのか、ということだ。

2. 排除なき包摂はあり得るのか?

真面目に働いて結婚し子供を育て、家を買う。そのルートに乗りさえすれば国民全体が豊かになる、という時代ではもうない。困窮者に対しても、かつてのように国民全体を引き上げる、とうい発想の政策では対応できない時代になっている。
同時に、現代ではステレオタイプな属性として人々を捉えるのではなく、個人を尊重し、多様性を認めよう、という価値観が徐々に浸透してきている。そういう時代において、多様性を認めつつ、包摂するとは、どんな形があり得るだろうか?

…と書いておきつつ、私は「包摂」という言葉には居心地の悪さというか、気持ち悪さも感じるのだ。
一つには、理屈としては外側を規定することで内側が定まるということから、そもそも「排除なき包摂」ということが矛盾を孕んでいるということだ。
それから、より現実的な話として、世で用いられる「包摂」という言葉が、権力者や体制にとって都合の良い、押し付けがましい「包摂」に過ぎないのではないか、ということもその理由の一つだ。
支援される困窮者は、行儀よく慎ましい人間であれ、というような具合だ。これも自己責任論の呪縛による影響が多分にあると思われ、自己責任で負けた人を救済してあげるんだから言うことを聞け、という構図になるわけだ。

つまり、包摂というのはある側への一方的な招待であり、そうでない選択肢を拒絶するものになっているのではないか、ということだ。そこには多様性なんてものは微塵もない。そのことは、困窮者以外にも拡張できる。つまり、社会に応援されるべき人間像として、出産しながらもバリバリ働く女性や懸命に働こうとする障害者であることを求めるのだ。

そういうわけで包摂という言葉には胡散臭さもあるのだが、しかし、ここは敢えて「全ての人を取り残さない」という意味での「包摂」をどうにか追求してみようではないか。


3. 包摂のオルタナティブとは?

話を戻して、「包摂」のオルタナティブを考えてみよう。ここでは、私がいつも例に挙げるオーストラリア・シドニーにおけるホームレス状態の人々への対応を例にして考えよう。

オーストラリアのホームレス支援政策は、2000年代中盤からハウジングファースト型へと大転換した。ホームレス状態の人々に対して、施設ではなくまずきちんとした住まいを提供し、その上で様々なサポートをするというものだ。この方が住宅定着率も高くトータルの社会コストが低いとされる。この政策は数値的な目標を設定し積極的に推進されたのだが、これだけでは収容的な措置につながる懸念も生じる。
しかし、シドニー五輪開催地であったNSW州には、ホームレス状態であっても排除しないことを宣言した行政間の取り決めが存在した。これは2000年の五輪を機に結ばれた議定書によるもので、ホームレス状態でも他の市民と同様の権利を有することを明記したものだ。つまり、公共空間にいる権利もあり、自傷他害の恐れがない場合はホームレス状態自体を否定しないということだ(※2)。

これは一見矛盾するようだが、本来両立されるべきもので、こうした姿勢こそが包摂的な態度だと考えられる。つまり、一方的に、体制にとって都合の良いことを包摂と捉えるのではなく、そうでない場合をも受容することを担保して初めて、多様性を持った包摂的な態度であると言えるのではないか、ということだ。

これは様々な分野に通底していることだと考えられる。つまり、子どもを産みやすくする環境を整えようというならば、同時に子どもを生まない選択をした人も生きやすい社会であるべきだし、障害を持った人が働きやすい環境を整えるのと同時に、働けない人でも肩身の狭い思いをせずによりよく暮らしていける環境をつくるべきだ。

「包摂」を考えるときには、その「包摂」に含まれる以外の選択をとったことについても受容されることが重要で、それを担保することが不可欠である。そうでなければ、包摂という仮面をつけた排除につながるということが、現時点での私の「包摂」についての考えだ。

ではそれは日本の政策的にどのような形があり得るか?ということは、これから粘り強く考えていくべき宿題と言える。具体的な政策に落とし込む段階で、マッチポンプ的になることは大いにあり得る。理想論のように思えるかもしれないが、ネオリベラリズムが浸透し命すら軽んじられる世界で、排除なき包摂を目指そうとする国や都市が確かにあるのだ。もちろん全てがうまくいくわけではない。しかし、愚かな差別的思想や選民的な思想に惑わされず、どうすれば全ての人が取り残されずに命をよりよく保つことができるかを考え続けることが、人間の理性と知性を信ずる者の取るべき態度ではないだろうか。

※包摂の議論については、これまでの海外事例の研究を踏まえつつ、ライターのみわよしこさんに取材いただいた際に障害者の就労支援に関するお話を伺ったり、パートナーと女性差別について議論したりする中で考えが整理され、本記事執筆に至りました。感謝申し上げます。

<注釈>

(※1)命の価値を経済的な尺度で測れるのか、ということに対する考えは以前に書いた記事を参照されたし。「#05 死ぬことと生きることについて考えること

(※2)だいぶ前に書いた論文だが、この事例についての詳細はこちらを参照されたし。「行政機関が締結している公共空間におけるホームレス・プロトコルの研究 -オーストラリアNSW州シドニー市を対象として-

※参考になりそうな文献はあとで時間があるときに付記しますが、とりあえずホームレス問題などに関心のある方への読み物として拙稿を紹介。
ホームレス問題って何だ? 〜いま僕たちが考えなければならない理由(1)
「公園とホームレス」から、これからの都市の空間を考える(1)


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