いまさらわかる新世紀エヴァンゲリオン㉛TV版第弐拾伍話『終わる世界』
劇場版最終話前に、エヴァンゲリオンのテレビ最終話について。ご存知の方はご存知の、「おめでとう」というアレです。
よく投げっぱなしとか言われますが、ぶっちゃけると製作スケジュールの都合の様子。なので、実は精神世界描写に全振りしたテレビ版でも、随所に劇場版のエッセンスが見られます。
つまり、「劇場版を見ないと位置づけがよくわからないシーン」が出てくるという……。なので、本連載では劇場版の流れをわかった上でテレビ版に挑む、という構成になりました。
シンエヴァが早いか、連載完結が早いかのチキンレースもいよいよ終盤。第25話『終わる世界』、行ってみましょう。英語タイトルは"Do you love me?"。自己肯定が欠落したシンジくんの話であるエヴァンゲリオンに相応しいタイトルですが、総集編劇場版で触れた通り、或る意味、エヴァという物語がリリスとシンジの関係から始まったものだとするならば、答えはYesになるのかもしれません。
本編。シンジくんの存在理由(レゾンデートル)探しから。
24話、シンジくんは最終的にカヲルくんを手に掛けましたが、それが「何故」かは本人にもわからない、というのがキーポイント。
使徒だから殺した、という理由に縋るシンジくん。それを問い詰めに(?)現れるのは、カヲルと同じ存在であるレイ。「仕方なかった」「好きでやったんじゃない」と主張するシンジくん。
「助けて」と「だから殺した」が交互に出る。シンジくんは助けが欲しかった。そして、手を差し伸べられたカヲルくんに裏切られたから殺した……とも捉えられますが。何故、助けを求めたか? というのが一歩踏み込んだポイントです。
ここでミサトさんの登場。
ミサト「生き残るのは、生きる意志を持った者だけよ」
ミサトさん相変わらず鬼! と、言いたくなるんですが。こうして文脈を説明されると、この台詞の意図もわかります。
ひっくり返せば、シンジくんは生き残った。つまり、「何故殺した?」の答えは、多分単純に、誰よりもシンジくん本人が「生きたかったから」と捉えられます。ミサトさん、人の心はあんまりないけどたまに本質を捉える。
次は強迫観念。「本当にこれでよかったのか?」と悩むシンジくん。自分が嫌われるのが怖い。「父親に捨てられた」という思いが、その強迫観念を形作っているようですが。果たして本当にそうなのか。
というわけで、シンジくんの心は五里霧中です。「心の迷宮」と言われたりもします。そこで、他人の名前を呼ぶシンジくん。劇場版から逆算すると、シンジくんが「他人」を欲している、という重要ポイントでもあります。
そして、他人を求めるために、人を傷つけてまでエヴァに乗ってきた。エヴァに乗るのはみんなのため、良いこと。
しかし、そこにはシンジくんの、「自分」の意志がありません。ここも重要ポイントなんですが、そこをアスカ糾弾するアスカ。エヴァに乗ることで他人から与えられるものを待っているだけ。そんなのは偽りの幸せ、というのですが。
レイ「それは、貴方も同じでしょ?」
というわけで、見事にブーメランが突き刺さります。前も言ったエヴァのお約束、他者への言及は自己言及です。
ここまで、シンジくんは、自己肯定の低さ故に「自分の意志」を大事にしていない、という点をよく覚えておきましょう。
次、アスカのターン。水中で蹲っているエヴァ弐号機は、劇場版25話で見たシーンです。
エヴァに存在意義を全振りしたアスカは、エヴァが動かないと自分の存在意義も見失います。さっき本人が言ってた通りの共生関係。シンジにとっての「悪い例」とも言えるかもしれません。エヴァに乗れないパイロットなんて誰も居ない、ということで、「他人に必要とされる」≒「他人の中に自分を求める」のがアスカの在り方。
分離不安。とのことですが、愛着のある人物や場所から離れることについて、著しく不安を覚えること。人間の発達段階で見られるものですが、大きくなってからも持続することもあり、分離不安障害と診断されることもあります。
アスカもこの辺をモチーフにしたキャラクターっぽい。愛着のある人物は加持さん、愛着のある場所はエヴァの中、というところでしょうか。
次、愛着行動。ざっくり言えば、対象者への親密さを獲得し維持するための行動。アスカにとっては、エヴァに乗ることがそれ、という話。
相変わらず、アスカ編はサックリしてますが、次はいよいよレイのターン。レイについては、自我の在り方がまず複雑です。エヴァ本編中に出てくる綾波レイは三人いますが、其々「別人」です。
しかし、他人からは皆同じ「綾波レイ」として扱われるわけです。おまけに、自分の過去も定かならぬ状態で。という事情なので、「他人からレイと呼ばれるからレイなのだ」という自己認識なのは致し方なしと言えます。
レイにとっての悩みは、自分自身が作られた存在であること。心も体も魂も、全て偽りで人のマネをしているだけ、とレイの中のレイ(?)は言います。レイの中の「本当の自分」は、リリスとしての在り方のことでしょう。
しかし、たとえ生まれが偽りでも、「自分は他人との繋がり、今まで生きて来た時間、『絆』によって『綾波レイ』になったので、自分はもう綾波レイだ」と突っぱねるレイ。つ、強い……! あまりに精神的に強固です。
ただそれでも、いずれはリリスに戻らないといけない、今のレイは「居なくなる」かもしれない、という不安はある……? のかと思いきや。「怖い」はわからない、むしろ無へ還りたい、とか言い出す。やっぱり武人キャラか何かでは……?
ただ、無へ還ろうとする(リリスに還ろうとする?)自分を引き留めていたゲンドウに対し、いつの間にか愛着を覚えている様子。ゲンドウに捨てられるのが怖い。
ということで、ゲンドウに呼ばれ、役目を果たそうとするレイですが……劇場版での結末はご存知の通り。
再びシンジ。人類の補完が始まったので、この辺がちょうど前回まで見た辺りでしょうか。シンジくんは前回LCLに溶けたことを思い出している様子。補完されるものは心と魂。
イメージしづらいかもしれませんが、人の心と心をくっつけ、欠けた部分を埋め合わせ、より大きな存在となる、という感じでしょうか。よくSF小説「幼年期の終わり」が元ネタ、と言われますが、違う点もあります。
虚無へ還るのではなく、この世界に喪われている母(リリス)へ還るだけ、と説明するゲンドウ。ゲンドウがユイにバブみを覚えているシーンではないと思います。多分。
また、リリスから生まれた存在であるレイにとっては、大本のリリスの覚醒は自身の消失を伴うので、「虚無へ還る」で合っていると思います。レイとリリスの関係を押さえているかで見方が変わるシーン。
撃たれてプカプカしているリツコ。これも劇場版要素ですね。
対話するリツコとミサト。多分、この時点だと両者とも死んでますが。魂はやはりリリスに回収されている、と見るべきではないでしょうか。
他人と繋がり、心を埋め合わせて満ち足りた世界をつくる補完計画。そんなのは結局、寂しさを紛らわす馴れ合いだと喝破するミサト。嘗て馴れ合いに身をゆだねていたミサトさんが言うと説得力が違います。
というわけで、「補完計画」のCASE1。ミサトのpart1だそうですが。
テープで張り合わされた子供のミサト。父親が母親に苦労をかけてるので、「良い子にならなければいけない」と他人に言われていたし、自分に言い聞かせ続けていた。それは、パパに嫌われないようにするため?
しかし、母のようにはなりたくないし、母に苦労をかける父も嫌い。
結果、「良い子になる」ということはミサトにとっての呪いとなります。「良い子である」ことをやめるため、自分を汚し、傷つける。更に、セカンドインパクトによって自分にとっての父がどんな存在なのかわからなくなりました。
結果、父の影を見出した優しい加持さんを、ミサトさんは自分を汚す道具として使おうとした。というのが、ミサトさん本人の解釈。
そして、自分の情事をシンジくんに見られる。これも、「他人との壁」が無くなった、人類が補完された世界の作用と言えますが。他人との隔たりがない世界は、必ずしも良いことばかりではない、という例かもしれません。
しかし、ミサトの心の声と合わせて考えるなら、ミサトが「自分を汚す」ために、とうとうシンジくんをも利用し始めた、という解釈もできます。ミサトさんの業が深すぎるッピ!
当然ですが、シンジくんは困惑というか迷惑そう。
ミサトは加持さんに何を求めていたのか?
「父親」はともかく、安らぎや温もりを求めていた、という声すら否定するミサト。「父親を求めていた」については、前に本編中で言っていましたね。
直接単語としては出てきませんが、ミサトさんは、エディプスコンプレックス(エレクトラ・コンプレックス)がモチーフであるのかもしれません。
そして加持さんは優しいので、自分を傷つけようとするミサトさんを諭すことは出来ますが、ミサトさんを変えることはできない。ということで、「恋の終わりには理由がある」というお話。加持さんもミサトの父親同様、ミサトさんを置き去りにしてしまうわけです。
そうして自分を汚し続けるミサトさんも、(本当の)自分に絶望することがある。そして、他人から認められるのは「良い子」の自分。ということで、この乖離を「自分は幸せ」と思い込んで埋めようとしている。
この辺が、「自分にとっての自分」と「他人の中にある自分」という、エヴァの共通のテーマ、他人との関係性に繋がっています。
ミサトさんの場合、異性との関係が「自分を傷つけるためのもの」であり、同時に「自分を癒すためのもの」でもある。これは、異性を他人に読み替えても実は同じだよ、というお話なのかなと。
CASE2、アスカの場合。同じくPART1。
自分を傷つけても他人との繋がりを求めたミサトに対し、「一人で生きる」ことを望んだアスカ。
悩み事は継母との関係。娘に聞こえるところでこんな話する継母もどうかとは思いますが。実際のところ、アスカは母親という存在を求めていたという部分があります。しかし、それに裏切られ続けてきた、というのが話のポイント。
元々は、実の母親が自殺したところを見てしまったのがトラウマの根源の様子。そして、その死に顔が嬉しそうに見えたようです。
ただ、そうなると母親の「一緒に死んでちょうだい」という台詞がどこで出たのか、という疑問もあります。父親への恨み言と一緒に、娘だと思っている人形に話しかけているのを見たのでしょうか。まぁ、子供の頃の記憶は曖昧なものですし……。
「男の子も嫌」というのが、「パパ、ママ」よりも先に上がっているのがちょっと気になるところですが。「守ってくれない」、「一緒にいてくれない」から、とのことです。ちょっと覚えておきましょう。
結果、他人を求める心を押し殺し、「一人で生きる」という望みを持っている、というのがアスカの核。余談ですが、この辺は、境遇や設定が違う新劇のアスカでも共通しているところが見受けられます。
と、各人の心中が語られたところで説明パート。これは人類補完計画の過程の一部。「自分で感じているものが貴方の中の事実」「その記憶(積み重ね)が自分にとっての真実になる」とのことですが、次回も出てくるので覚えておきましょう。
なので(誰かにとっての)事実は沢山あるし、真実は時とともに変化しうる。というのが、エヴァンゲリオンにおける「事実」と「真実」の扱いのようです。
そして、「誰もシンジを救えない」と「今起こっていることは自分の望んだ結果である」ということですが……これ、回りくどい言い方&印象操作をしていますが、繋ぎ合わせると、「自分(シンジ)を救えるのは自分(シンジ)だけ」という話になるんですよね……。逆に言えば、自分の心の持ちようで(自分にとっての)世界は変わる、というお話。
あと、現在進行している結末は「破滅」「死」「無への回帰」「誰も救われない世界」ということですが。この辺は多分サードインパクトの話。
同様に、エヴァにとっての「現実」は、「貴方の世界」ということ。つまり、世界を自分がどう捉えるのかが現実、という話です。この定義は、劇場版の方にも関わってくるので、しっかり押さえておきましょう。
なので、周囲やミサトさんがどれだけアレでも「決まり切っている」なんてことはなく、「自分で決めている」ということになる訳です。
エヴァンゲリオンはこれまでも人間関係のすれ違い、誤解を意識的に取り扱っているアニメでしたが、25、26話が或る意味その真骨頂とも言えるでしょう。言ってる内容は実のところ希望に溢れていても、シンジにとっては辛く、厳しく、理不尽に聞こえてしまう。
そして、ここまでのところ、シンジが一人の閉ざされた世界を望んだわけですが、その結果、世界は滅びへと向かうという点について。ここはそもそも、「シンジの意志に世界の命運が託されている」という前提が劇場版を見ないとわからないのが問題です。TV版だけだと、サードインパクト関係なく、純粋に「シンジにとっての内的世界の話」と捉えても成立してしまうのがややこしい点ですが。
但し、結果生み出された世界を、シンジくんが決して心地よくは思っていない、というのが重要なポイント。自己肯定感マイナス人間が一人で閉じ籠っても、延々自分を責めるだけ、という大変身も蓋もない話ではありますが。
これも終わりの一つのカタチですが、それでも補完への道は続く。ということで、テレビ版最終回へ続きます。次回予告の台本を見ると、「画面の何を映すか」について割と細かな調整が行われていることが伺えます。
一部、答えめいたことも書いてしまいましたが、果たして次回、シンジくんは如何なる結論を導き出すのか。それでは、次回、エヴァと言えば誰もが知るあの結末。『世界の中心でアイを叫んだけもの』でお会いしましょう。