いまさらわかる新世紀エヴァンゲリオン(補足編)

 月日が経つのは早いもの。劇場公開の後、なんとAmazonプライムで配信が始まったシン・エヴァンゲリオン。新劇について色々語りたいのは山々なんですが、それは別の機会。
 あと、結構前の話となってしまいましたが、当連載がnote公式に紹介されました。これも読者の皆様の応援の賜物です。ありがとうございます。

 そんなわけで、「シン・エヴァ公開までの情報で新世紀版エヴァを読み解く」というのが本連載のコンセプトだったわけですが。シン・エヴァンゲリオンを踏まえて、重大な解釈修正が一つ発生したため記事追加と相成りました。

 解釈修正のポイント、それはズバリ、「エヴァの中に母親はいるのか?」という点です。
 ご存知の通り、新世紀版におけるエヴァは、コアの中に母親の魂を入れることで、パイロットとエヴァのシンクロを可能とした……という設定になっています。
 そして実際、エヴァンゲリオンは起動実験の過程でパイロットの母親たちの魂を取り込んでおり……ゲンドウも、アスカも、シンジですら。エヴァの中に母親を見ています。本連載でも、これを以て「エヴァの中に母親がいる」という解釈を採用してきました。

 では、それらを以て「エヴァの中に母親がいる」と断言できるのでしょうか? 作中の設定がそうなっていて、登場人物たちもそう思っている。でも、果たしてほんとうにそうだと断言できるのでしょうか?
 この記事は作品読解としてかなり危険な領域に踏み込んでいるのでは? という感もありますが、順を追いましょう。

 エヴァンゲリオンでは、作中の人物によって持っている情報が違い、それによって解釈が変わっている、というのは今までの連載でご覧いただいた通り。
 そうした中で、ゲンドウはほぼ全てを知っているポジションにありますが……そのゲンドウですら知らないことはあった、というのは旧劇場版で見た通りです。つまり、「エヴァの中にユイが居る」というのも、あくまで「ゲンドウによる見方」である可能性は十分にあります。特にユイ関連になるとゲンドウがアレになるのも皆さんご承知の通り。設定的に「魂」がエヴァの中にある、までは確かなのでしょうが……。

 これだけでは謎は深まるばかりですが、エヴァという存在について考える上で、対になるもう一つの例が、綾波レイです(駄洒落じゃないよ)。
 綾波レイは碇ユイとリリスから生まれ、リリスの魂を持っていますが、既にリリスとは別個の意志を持った存在となっています。
 なら、もう一つの……碇ユイの魂を宿し、リリスの肉体を得た存在は、既に碇ユイではなく。「エヴァンゲリオン初号機」という独立した存在である、と考えるのが自然ではないでしょうか。
 では、そのエヴァ初号機はどのようにエヴァ初号機たり得たのか。綾波レイの場合を参照しましょう。
レイ「私は私。私はこれまでの時間と他の人たちとのつながりによって私になった。他の人たちとの触れ合いによって今の私が形作られている」(テレビ版25話より)
 ということだそうです。エヴァ初号機の場合で言うと、シンジくんと繋がったこと。そして、共に戦ってきたことが……エヴァ初号機をエヴァ初号機として確立させた、と言えるかもしれません。

 魂はそこにある。けれど、同じ魂で動いていようと、それは別の経験を経て別の存在となり得る。渚カヲルとアダムもそうだし、レイの二人目と三人目の存在もそうです。エヴァンゲリオンにおける「魂」とは、「そういうもの」と考えるべきなのかもしれません。あくまで存在を構成する「要素」、「エッセンス」と言い換えても良いでしょう。
 勿論、魂によって、それを見出す人はいるでしょう。ゲンドウが初号機の中にユイを見出し続けたように。それが必ずしも間違いとは言い切れません。

 しかし、たとえば。エヴァンゲリオンという作品の中に、様々な形でウルトラマンの要素を見出す人は居るでしょう。しかし、それはエヴァンゲリオンがウルトラマンである、ということを意味しません。あくまで、それは構成要素の一つであって、「そのもの」ではないのです。

 つまり。ややメタな視点ではありますが、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、様々な作品のオマージュのカタマリでもある「エヴァンゲリオン」という作品が、確固としたアイデンティティーを持つ「エヴァンゲリオン」という一個の存在として確立するまでの話、と捉えることもできるでしょう。
 そうして「エヴァンゲリオン」は社会現象となり、いまや「エヴァっぽさ」はそれ自体がパロディの源泉として、様々な作品の中に組み込まれています。そのこと自体が、エヴァンゲリオンという作品の存在の証明である、とも受け取れるでしょう。旧劇場版のラスト、永劫不滅の存在として宇宙へ旅立った初号機のように。

 以上が、シン・エヴァンゲリオン後に生まれた解釈修正に関するお話なわけですが。さて。そうなると必然、一つの疑問が生じます。
 新世紀エヴァンゲリオンが、「エヴァンゲリオン」という存在が確立するまでの話だとしたら。
 既にそれが確立した後に作られたエヴァンゲリオン。即ち「新劇場版」では、どれだけ中身が似ていようと、そもそものスタートラインが違ってしまっているのです。
 では、果たしてそれは、何処へ向かうべく作られた作品なのか。

 答えと言えるかもしれないものは、新連載『ようやくわかるヱヴァンゲリヲン新劇場版(仮)』で。キーワードは「相補性のうねり」です。

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