いまさらわかる新世紀エヴァンゲリオン㉜TV版最終話『世界の中心でアイを叫んだもの』
今回でテレビ版は最後です。タイトルの元ネタは短編SFの名手、ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』。
旧ガイナックス系作品のお約束、SF作品タイトルですが。作品内容とはあまり関係ない……と、見せかけて。同タイトル収録の短編集の前書きに、こんな文章があります。この短編集も機会があれば是非読んでほしい。
「他者はあなたにこう教えるために存在する。すなわち、夜が近づきつつあるとき、われわれはすべて地球という異邦の惑星に住む異星人であるということ。キリストも、人間も、また人間によって組織された政府も、決してあなたを救ってはくれないということ。(中略)神はあなたのなかにあるのだ。あなたを救うのは、あなた自身なのだ。」ハーラン・エリスン(伊藤典夫 訳)『世界の中心で愛を叫んだけもの』まえがきより
前回もちらっと触れましたが、エヴァの内容まんまです。
英語タイトルは"Take care of yourself."ニュアンスとしては「そんじゃ体に気を付けて」くらいでしょうか。取り敢えずの最終回に相応しいタイトルでは。カラダニキヲツケテネ!
冒頭。劇場版の回でも言いましたが、「人類の補完は続いてるけど、全部やると時間足りないからシンジの場合だけやるよ」という説明。
というわけでCASE 3、シンジの場合。アスカも直接姿は見せないけれど、声だけ登場します(前回次回予告の台本から、敢えてアスカの姿を映さないよう変更していることがわかります)。恐怖、「自分がいなくなること」。とのことですが、劇場版においてはシンジは「僕がいない」と言って補完された世界を拒絶します。なので、ここも重要ポイント。
しかし同時に、自分に価値を見出せないので「どうでもいい」と思っている。矛盾していますが、実際のところは「弱い自分」、ミサトさん風に言えば「良い子」ではない自分を、誰より自分が認めることができない、というのが問題の根源、というお話。
これらを指して、みんな「心が欠けている」という指摘。「自分」は弱く脆く、完全ではないのに、生きていくには「他人」と関わる必要がある。その過程でよくないことが起きる。
それをお互いの心を一つにして埋め合わせることで補う、というのが補完計画の中身、という説明。
ゲンドウは「そう(補完)しなければ生きていけない」と言いますが、「本当に?」という話。劇場版では、ゲンドウは最終的に補完されずに死にますが。
人は、今でも生きている。なら、生の在り方を変える意味とは。
ということで、今度は生の意味を問うターン。この辺までくると、補完がだいぶ進んでいるので、みんなだいたい同じことを言っています。「どうして生きているのか」「生きていて嬉しい?」などの言葉が投げかけられますが。
さて、ここでシンジくんを語る上で避けて通れない、「逃げちゃダメだ」の意味について。ここで回収されます。
幾度か本連載でも触れましたが、まとめておきましょう。そもそも、シンジは本編開始前に「逃げだして」います。それは、父親との関わりを避けてきた件。そして、三年前の墓参りの件。そして、そんなシンジくんは「逃げると孤独が待っているので辛い」と語ります。最初から「逃げる辛さ」を知っていたのです。
本当に辛かったら、逃げてもいい筈なのに。しかし、逃げたこと、「捨てられた」ことの辛い記憶と、「逃げちゃダメだ」という呪い。これによって、「逃げることから逃げてきた」のが、エヴァにおけるシンジくんだった、というお話。
しかし、「逃げたらみんなに嫌われる」というのは、シンジが他人からの好意を信じきれないが故の思い込み、という指摘。そして、その根底にあるのは、自分の価値を信じきれないこと。
価値のない自分という思い込み。そして、その思い込みを誤魔化すために、褒められるためにエヴァに乗ってきた。シンジくんも大概難儀なヤツです。
しかし、エヴァ作中を通して、シンジくんには様々な感情が向けられてきました。それによって報われることが少なかったとしてもです。それでも、自分に価値があるのはエヴァに乗っているからだ、と思い込む。エヴァに乗ることで、辛い目に遭うとしても。そうしてエヴァに依存してしまうと、エヴァ以外の「自分」が本当になくなってしまう。
ということで、エヴァに乗れなくなったことで精神を失調したアスカは、シンジにとっての「悪い例」だった、というお話。
以前あった「アスカがシンジのチェロを褒める」みたいなシーンが如何に大事だったか、という。既にシンジくんのエヴァ依存が深まった後だったので何にもなりませんでしたが。
「シンジの中の他人」から浴びせられる「嫌い」という言葉。単なる「思い込み」だと何度指摘されても、なかなか治るものではなし。ただ、これも「自分が自分を嫌いなので、他人も自分を嫌いな筈」という、自分と他人の区別の曖昧さに起因している感。
アスカという「悪い例」を見て尚、シンジくんは「エヴァに乗るのが自分の全て」と言い切ります。ここまでAパート。
色々な風景を「好きじゃない」と片付けていくシーン。ここは、「心の持ちようで物の見方が変わる」という具体例と考えられます。
次、何が欲しいのか、何が怖いのか。拒絶を恐れ、接触と承認を求める。どちらにも共通するのは「他人の存在」です。そして、少し後に出てきますが、「母親は最初の他人」ということで、アスカは「母親について」。シンジの場合は父親についてですが。
シンジもアスカも、親に対して不安や恐れを持っている、という共通点がある、というお話。そして、幸せを求めるよりも前に、その不安や寂しさを解消したい。そのためには、自分自身に価値があることが必要、と主張するシンジくん。
ここまで、基本的には、自分の価値は自分で認めるしかないけど、そのためにエヴァに乗るのは違うよね、という話で一貫しているのですが。そのためには、エヴァに乗らない自分とは、という話になります。なんだかエヴァ依存症の解消みたいな感じです。
なので、まず「自分」とは何、という定義の話。「僕と認識しているのが僕」ということで、シンジくん、だいぶ「答え」に近付いてきています。しかし、自分がわからない(認めたくない)ので、自分を理解することも大事にすることもできない、と意固地になるシンジ。
自分も他人も周りの環境も常に変化するし、何より心の持ち方で変わる、というお話。その比喩として、アニメ的表現で自由と世界の話が出てきます。
自分自身の世界、自分自身の現実の形は、自分自身の心とその周りの世界で出来ている。ということで、これがエヴァンゲリオンにおける「現実」の定義です。つまり、「自分自身が認識する世界」を現実と表現している。ここ、非常に重要なので覚えておいてください。
なので、何も無い世界では、「自分」の定義すらも意味を成さない。
そして、「他人」によって自分の形を知る、というのは、他人と自分が別の存在だと認めること。ということで、シンジくんの自己否定が「他人と自分の同一視」に起因していた部分を否定します。
自分は自分だが、他人が自分の心の形を作っているのもまた確か、ということで、シンジくんは「自分」についての答えを得ます。
そして、最終的に「エヴァに乗らない自分」を定義するために登場するのが、「エヴァの無い世界」の話です。
このif世界、アスカが幼馴染だったり、ゲンドウとユイが居たり、レイが性格違う上に転校生だったりと、色々違います。
後に「鋼鉄のガールフレンド2nd」や「碇シンジ育成計画」等のゲームでは、この世界観をベースにしていますが、「エヴァの無い世界」がそもそものコンセプトなのに、ゲーム版だと結局エヴァが出てくるんですよね……。
あと余談ですが、途中でゲンドウが読んでいるのは日経産業新聞。実在の新聞です。アップの場面では「2016年9月」になっています。記事内容も小ネタが仕込まれてて面白いです。ソ連が存続してたり、オネアミスネタだったり。
と、いう訳で、「エヴァの無い世界」での自分を見たことで、シンジくんは「エヴァに乗らない自分」が有り得る、ということを無事想像できるようになりました。
そして、現実は悪い場所ではなく、現実を真実に置き換える方法さえ変われば、心の持ち方も変わる。自分の持っている受け取り方、尺度で、人の中の「真実」は変わってします。
ゲンドウ「ただ、お前は人に好かれることに慣れていないだけだ」
と言うゲンドウ。できれば直接言ってあげて欲しかった。
そして、「みんなに嫌われている」というのは思い込みで、自分にとっての自分がどんな存在であっても、目を背けず、それを認めれば自分に優しくすることはできるし、もしかしたら自分を好きになることもできるかもしれない。
ということで、「自分」を認めることのできたシンジくんは、「ぼくはここ(世界)にいてもいい」という結論を手にします。これは同時に、「他人」の存在を認めることでもあります。
だからこそ、「おめでとう」……ようやくシンジくんが受け入れられるようになった他人からの好意に対し、「ありがとう」と返し、エヴァンゲリオンでもある「母」には「さようなら」を告げる(この辺は、劇場版の結末ともセットになっています)。
以上をもって、碇シンジにとっての「新世紀エヴァンゲリオン」は完結を迎えるわけです。めでたしめでたし。
さて、ここまで出てきた、見方によって世界が変わる、というのは福音でもあり、エヴァという作品そのものでもある、と言えると思います。そして、これらテレビ版の話をきっちり押さえているかどうかで、劇場版のエンディングの捉え方も変わると思います。
テレビ版最終回を以て、シンジの「自分」については決着が付きました。では、シンジにとっての「他人」とは? 世界の在り方とは? そうした謎がまだ残っています。
というわけで、次回。もう一つの最終回。そして、本連載の最終回。「まごころを君に」の後編でお会いしましょう。
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おまけという名の蛇足:「作品の外」のエヴァンゲリオンについて。
本来、「作品の外」の話をするのは趣旨に反するのですが、「作品の外」の解釈が本編を見るノイズになるのも違うんじゃないかな、ということで、その辺りの話にもちょっとだけ触れておきます。読み飛ばしても全然OK。
よくエヴァンゲリオンについて、「現実に帰れ」というメッセージが取り上げられますが、エヴァンゲリオンの中で言われている「現実」の定義は、本連載でも述べた通り。
その上で「現実に帰れ」というのは、「自分の世界との向き合い方に立ち戻るべきだ」という意図として解釈できます。現実は人それぞれ。だから、必ずしも「みんなが帰るべき現実」があるわけでも、アニメをフィクションとして否定するとかそういう話ばかりでもないんじゃないかな、というお話。
あと、エヴァのキャッチコピーとしてよく取り上げられる「たからみんな、死んでしまえばいいのに」ですが、セットで「では、あなたは何故、ココにいるの?」というキャッチコピーがあります。そして、本編では、自分自身が自分の価値を認め、ここにいる(生きていく)、というところまで既に答えが出ています。
要は、「頼まれなくても生きてやる」というところまで、エヴァの段階で既に到達している、というお話。
以上、蛇足でした。