一緒のタイミングで死ねたらよかったね
大事な存在を亡くした。猫エイズだった。円熟した10歳の、ちまっとした家族だった。発症から2ヶ月、病状の進行はあまりにも急峻な下り坂だった。
彼を看取ったのは2023年の冬のことだったが、散らかった記憶を納得できるまで整理するのにかなり時間がかかってしまった。
とはいえ、どうにもカラッとした文章が書けなかった。未だに僕の中では喪に服しているような気分が続いている。あまり明るくない話にはなるので、その点ご容赦してほしい。誰しも、誰かと関係して、誰かを失くし、死の何たるかと向き合い始めるのだとして、僕にとってのその最初が彼だったことになる。
遠い日々に祖父や先住猫を亡くした記憶は、ある。けれど、身近な存在にもたらされる極限の出来事を、当時の僕がどう受け止めたのかはあまりに曖昧で頼りない。まともにものを考える年齢になっても、この不安だらけの騒々しい感情に、僕は結局みっともなく深夜に頭を抱え、懊悩を繰り返した。
先住猫が居た。 それから10年ずっと彼が居た。
我が家には時系列を遡ると4匹の猫が "居た" 。先住の姉妹猫のペアと、後住の兄弟猫のペアになる。10年前、1歳になったばかりの先住の姉妹猫の片割れが不慮の事故で亡くなった。悲しみに浸っていた我が家に、三毛猫から生まれた生後1ヶ月の子猫兄弟を、母親の知人から譲り受けた。
と、書き出して、リビングに飾られた先住猫の生前の写真を眺める。彼女の性格や、今は11歳になった片割れとの関係性すらもう思い出せない。ただ家族はみな「誰がこの姉妹に気に入られているか」という話題に夢中だった。僕だってそうだった。
寝転がって DS をいじる僕にグルグルといいながら鼻を近づけてくる表情と、横たわる彼女の硬さと、出会った本だけを思い出す。
僕はたしか中学生になりたてで、おぼろげにも戸惑いのようなものがあったと思う。まだ我が家に猫が居なかった頃みたいに、ただ子猫に淡い憧れを持つわけにもいかなかった。友達んちの子猫をみて「いいなー、猫飼いたいなー」とか言ってた、そのハピネスの具現化みたいな存在が、実際に我が家に居たのだし、そして居なくなったばかりだった。穴を埋めるようにして新しい猫に来られても、おいそれと受け入れられるものだろうかといった気分があった。
ある平日の昼下がり、学校から帰宅すると、玄関から続くフローリングがちりひとつなく綺麗にされていた。今日、「来る」らしかった。
リビングで落ち着きなくテレビを点けたり消したりしていると、彼らはやってきた。鍵を開けた母親が戸口から現れる前に、賑やかな声音がリビングまで届く。布地のキャリーバッグの編み目から、発信源らしき小さなものがジタバタしているのが見えた。
ぴゃーぴゃーと威嚇しながら、その兄弟猫はキャリーバッグから出てきた。その愛らしさを前にして、身構える必要など微塵もなかった。焦茶のキジトラと白黒のハチワレは、毛がぽやぽやしていて本当に小さく健気に見えた。白黒のハチワレには、伊達政宗をもじって政宗と名前がついた。顔を駆ける黒い模様がぱっちりとした眼にかかっているのが印象的だった。
彼が友達んちのピーちゃんに似ていたことも、僕をどこか安心させた。ピーちゃんはゲームの宝庫みたいな家に飼われていた白黒のハチワレで、初めて心の底から「猫」に胸打たれた初恋みたいな猫だった。政宗を見ていると、放課後ゲーム通いをしながら、ただ子猫に淡い憧れを持っていた日が思い出されて、喉につっかえていたものが少し和らいだ感じがした。
そうして政宗も焦茶のキジトラも、我が家に馴染んでいった。1歳の誕生日を迎えて、先住猫の年齢を越えた日は、誰も何も言わなかったけど感慨深いものがあった。最初のうちはぴゃーっと走り去って、物陰からこそこそと様子を伺っていた片割れも、彼女のボウルから餌を盗み食いされても怒らないぐらいにはなっていた。
彼らのサイズアップも、あれから随分と時が過ぎたことを物語っていた。子猫から成猫になる時の成長は急な上り坂で、みんな子猫の面影が恋しくなるほど様変わりしてしまう。件のピーちゃんはというと、少し見ないうちにのしのしと大きな猫になって、久しぶりに家に遊びに行ったらショックを受けたこともあった。
焦茶のキジトラはまんまとその通りになった。でも、政宗は幼い面影を残してすらっとした猫になった。生涯ほとんど体型を変えなかったから、ぼてっと太った焦茶キジトラの兄弟に比べても、家族にかなり褒めそやされたハンサムな猫だった。
先住の姉妹猫の片割れと、政宗は仲が良かった。先住猫は、片割れを失ってから好みがはっきりするようになった。彼女は気性に波があったから、積極的に絡んでいく性格の焦茶のキジトラとはウマが合わなかった。そんな先住猫に、政宗が付きっきりで過ごしているところをよく見かけた。ただじっと側にいるだけで満足気な顔をしていて、そんな穏やかな性格が彼女に好かれたようだった。
生後半年ほどの頃、政宗のイタズラを叱責した父が手加減を誤って、動物病院に運ばれる事態になった。その時は、先代猫を失った傷も癒えないうちに何てことになったんだと絶望的な空気が家庭を漂ったが、なんとか生き延びてくれた。それを考えれば、長生きしてくれたんだと、看取ったあとに家族と話した。
その出来事がトラウマになって、政宗は8歳になるまでずっと父を避けていた節があった。廊下で鉢合わせたりすると、ビクッとなって固まってしまい、怯えた表情を見せることが多かった。そうした振る舞いも、立派な成猫らしからぬ、弱々しく幼い印象を抱かせた。
生涯、子猫気分を引きずったような甲高い声色をしていた。鼻があまりよくないのか、寝ている時もプープーといびきをかいていて、静かな我が家によく響いた。
10年。
そんなに時が経ったとはとても思えない。彼からしてみればなんとも失礼なのかもしれないが、なんだか僕の中ではずっと、政宗は初めて我が家に迎えた時の愛らしい子猫のままなのだ。
中学生の頃に彼を迎えたから、その間僕にも色々な変化があった。部活に友達に恋愛に、些細な悩みごとを抱えた日々から、大学受験に落ちたり受かったり就職したりといった人生の転機までがそこに詰まっている。その日々の中にずっと彼がいたんだと思うと、感慨深いものがある。
猫エイズが発覚した秋の日
その彼が、猫エイズを発症していると聞いたのが、5ヶ月前だった。母親が念の為病院に連れて行くというのを軽い気持ちで聞いていたので、LINE に母親から届いた「政宗、もう長くないかもしれない」というとてもアンバランスな知らせにめまいがした。10円ハゲのような脱毛が肩の後ろにあって、皮膚炎でも起こしているのかと思って動物病院に連れて行った矢先のことだった。
日にちが変わる頃に仕事から帰宅すると、政宗は妹の部屋の机の上に丸まって寝ていた。彼は、僕が差し出した人差し指に、うっすらと目を開けて、ゆっくりと首だけ動かして鼻を近づけ、スンと一呼吸だけしてまた寝入った。その時に、あまりちゃんと政宗のことを見れていなかったのかもしれないと思った。
最近そこに居所を移したことと、やけに一日中そこに寝転んで居るらしいことを、忙しい日々の中でもなんとなく知っていた。ここ1, 2年、あまり目がぱっちり開けられずに細目で生活していることは、やれ風邪が治らないらしいとか、加齢によるものもらいだとか、家族でも共有されている周知の事実だった。
けれど、人差し指の先をひと舐めでもしないことが、だらんとお腹を差し出して寝転ばないことが、ニャーと一言でも声をかけてこないことが、本当にもう長くないのかもしれないということを、いやに直感的に感じさせた。
小康の日々と、拭えぬ後悔と
そこから 1, 2週間ほど経って、政宗は自分の意思で居所を移した。僕の部屋の入り口のところにちょこんと座り込んでいたので、靴の空き箱の上に布地の小さなカーペットを敷いて、腰を落ち着ける場所を作ってやったら、そこに居座るようになった。
相変わらず一日中自分の決めた場所にじっと座ったり寝転んだりしていたけど、対症療法の注射や飲み薬が効いたのか、ハタと止めていた毛繕いをちゃんとするようになって、その様子がこちらを安心させた。陽当たりの良い日には、窓からカーペットに差し込む日差しの中にお腹を見せて寝転んでいて、その姿は少し前の元気な政宗そのものだった。
僕もなんとなく、この元気な姿を残しておこうと思って、何枚か写真を撮った。今となっては、仮初めの元気を見せてくれたこの写真を見ているだけで悲痛な思いがする。
10月の末からまた仕事が忙しくなって、家から遠く離れた都心のオフィスにいる時間が増えた。週2日はリモートワークが許されていたけれど、自分の担当している開発業務を上司のサポートなしに進められないだろうなと昼からオフィスに向かい、惰性で終電近くまで滞在していた。土日を除いてほとんど家に居なかった。
小康の日々ではあったけれど、僕はなんだか自分に対して隠し事をするようにして生きていた。毎日せわしく家を出て、日付が変わる頃に帰宅すると、ずっと同じ僕の部屋の入り口で政宗が眠っていた。その姿を見るたびにムズムズとした気持ちが湧いてきた。きっと僕は彼の死期が迫っていることから目を背けていた。
そしておそらくこの間に、少しずつではあるけれど政宗の容態も着々と悪化していた。まだ政宗が猫らしく居てくれていたこの十数日に、少しでも長く側にいてやれなかったことを、僕はひどく後悔している。
リミットがあるということ
ある日いつもの通り日付が変わる頃に帰ってくると、いつもの通りに政宗が部屋の入り口にいた。僕が廊下の向こう側から歩いてくるのに気づくと、顔をあげてこちらを見つめていた。いつものように覗き込むと、政宗はもうほとんど開いてないような目でこちらを見つめて、ゆっくりと瞬きをした。その姿を見て、急に涙が溢れてきた。11月初旬の寒い夜だった。
僕はこの時になってようやく、この気持ちに向き合わなきゃいけないんだと思った。以下の文章は、政宗を看取った後、当時ボイスレコーダーに吹き込んでいた言葉を聞き返して書いている。
それは今日ではないのだ、きっと
関東地方の冷え込みが増した11月の末、政宗は人目に付かないキャットハウスに引き篭もって、ちょこんと生きて居た。
朝夜の食事にむくっと起き出してきて、最初はひどくお腹を空かせていたかのようにカリカリと食べ始める。のだが、すぐにパタと食事を中断してその場に立ちつくしてしまう。
症状が出始めた頃から、免疫力が落ちてできた口内炎が痛いのだろうと思いながらその様子を見ていたが、この時期になるとぜえぜえと息をつくことが目につくようになった。それでも、口に入れたものを胃にじっくりと飲み込んでいくように息をつくと、またよしっと意気込んだ様子で食べ始めた。彼の生きようという気概がそこに確かにあった。
いや、彼は本当に亡くなるぎりぎりまで、僕たち家族の前であくまで気丈に振る舞った。病名や症状では分かっていても、日々の振る舞いからは本当に彼が亡くなるなんてとても考えられなかった。
食事を終えると、のそのそとハウスへ戻っていく。そうして1日のほとんどの時間をキャットハウスの中で静かに丸まって過ごした。時折、思い出したようにタタタッとトイレに向かう。用を足すと、砂をかけもせず急いで寝床に戻った。
床暖房をつけてやると、ハウスから出てきて重箱座りでうつらうつらとする姿を見せてくれた。そんな時になんとかその愛らしい背中をさすってやろうと、手を差し出す。もう毛繕いをする余裕もないのだろう、心なしかごわついた白黒の毛並みは、いつになく獣臭をまとっていた。
そっと包むような手の平の形をつくって、背中の中間から尾てい骨の上のあたりに向かって触れていく。そこにあるはずの肉感があまりにか細くて、僕は声にならない悲鳴をあげそうだった。
たぶんほんとうにその時が近いのだろうと思い始めていた。元々、症状が発覚した10月の時点で獣医から余命は3ヶ月ですと告げられていた。年を越せるかどうかはわからないね、という会話だって家族の間では何度も交わされていた。
それでも、それは今日ではない。明日ではない。来週ではない。と勝手に思い込んでいた。言葉の上では、覚悟しようねと話していて、受け止めようってまあ、準備は始めるんだけど。受け止め切る前に、その時がどうせ、来るんだろうし。もうそれは、避けられない事実として目の前に提示されて、否応なく、受け入れることしかできない。ってなってようやく、もう、ただ、受け止めるっていう。それがまあ、不条理ってことで。
彼は生きていた
12月8日金曜日、僕はいつものように日付が変わる頃に真っ暗な家に帰ってきた。1階の橙色灯をぼんやりと点けると、床暖房の効いたフローリングに彼の姿があった。彼は、餌場に敷いてある猫用マットに顔を乗り出すようにして寝ていた。晩ご飯の残った彼用の食器と、なみなみと注がれた水飲みボウル、そのちょうど真ん中に、重箱座りでうつらうつらとしている。
まるで食事中に眠ってしまった赤子みたいなのがすこし可笑しくて、でも僕にはそれが何としても生きてやろうという姿にも映った。そうやって彼のそばに僕も寝転がって、30分ぐらいそうしていた。プープーと浅い寝息を繰り返すのをじっとみていた。
たしかに彼は生きていた。
昼過ぎに起きてきたら彼は動物病院から帰ってきたところで、家族に囲まれて毛布の上でだらんと寝そべっていた。朝ご飯を吐き戻したあと、精魂尽き果てたようにしてその場にへたり込んでしまったので、まずいと思って病院に連れて行ったらしかった。
もう自分の力で身体を起こすこともできず、前脚と後脚をぴんと伸ばすようにして横向きに身体を倒して、仕切りにぜえぜえと呼吸をする彼に、昨日までの気丈さはほとんど残っていなかった。なんとか水だけでも飲ませようと身体を起こしてやろうとすると、どこかが痛むのか、あるいはほっといてくれと言いたげにギャオオオと唸った。
家族は皆、気が動転して様々なことをして、先住猫と兄弟猫もせわしなく周囲を取り巻くようにしてうろうろと様子を伺っていた。誰も今日だとは言わなかったけど、あと3日の命かもしれないと口々に呟いていた。
その日の夜、彼は旅立った。
一緒のタイミングで、死ねたらよかったね
死という極限の出来事に、全ての過不足や経緯や記憶がわだかまりに形を変えて一挙に押し寄せてきた。許容を越えて溢れてくる、意識が飛ぶような激しい悲しみは、涙に変えてその場その時間に逃せても、それ以外の全ては息を止めて蓋をすることしかできなかった。
日々の何気ない事物を見るにつけ、何気ない話題を聞くにつけ、これから一つずつ無数の鬱屈が噴出してくるのを消化していくことになるんだろうと思う。
会社を休んだ。波状的に押し寄せてくる感情になす術もなく、だらしなく週を泣き明かした。
出涸らしのうっすらとした頭痛を抱えて、ひとり部屋の端っこにうつ伏せになって、それでも虚ろな日常の彼岸からなんとか戻ってこようとした。たどった懊悩を、だらしなくもまっすぐに書き起こすことにする。
あとがき
僕は今、「政宗」という言葉を口に出すことができない。昔先住猫の片割れが突然亡くなってしまったとき、当時2歳だった残された片割れが、彼女を探して家中を鳴いて回った。2週間だったか彼女は悲痛な声色で声が枯れるまで鳴き続けていて、本当に辛かった。人間の方は死として早くに整理がついても猫の側にはそれが不条理な不在としてしか立ち現れないんだと、その時に知った。だから、僕は今、「政宗」と声に出すことができないでいる。この言葉を先住猫や焦茶のキジトラが聞いてしまったら、その拍子にパチンと何かを思い出してしまうのではないか、また昔の先住猫のような姿を見てしまうのではないかと思って心底怖いのだ。
政宗は急に亡くなってしまったけれど、それでも2ヶ月をかけてゆっくりと動きを鈍くしていって、猫の間でもゆっくりと息を潜めていって、静かに亡くなったから、残された猫にとっても、不条理な不在に向けての予行期間を十分に取ってくれたと言えるかもしれない。けれどしばらく僕は「政宗」と呼ばないでおく。本当は僕自身が彼を思い出して泣きたくなってしまうからかもしれない。彼が亡くなって3ヶ月が過ぎようとしている。気持ちは大分楽になったけれど、スマホのフォルダで彼の写真を見つけてしまうたびに、胸がキュッと締め付けられて苦しくなる。残された猫たちにとっても、そして僕にとっても、まだまだ時間が必要だと思う。喪に服する時間は、今しばらく続いていく。
最後に写真を載せておきたい。
僕は今、この写真を見て涙が止まらないで居る。