授業のレポート掲載してみた。
自分について哲学的に考えなさい。
私は自分のことを哲学的に考えた時に、答えは出ないと考えている。西洋哲学の父、ソクラテスは、古代ギリシャのアテナイで、道行く人に「恋人とは何か?」という問いを繰り返していたそうだ。実際恋人とは恋を寄せる相手という定義は出来上がっているが、そう考えると、恋とは何なのかということに繋がってくる。つまり、恋人の定義は存在しているようで存在していないと感じる。
このように考えていくと、自分というものの定義は見つからないのではないか。主観的に見た時の自分なのか、それとも客観的にみた自分なのか。それだけで多くの自分が存在している。さらには、ある特定の人からみた自分を考えればその人に対する自分が出来上がる。例を挙げれば、両親からみた自分は息子であり、祖父母からみた自分は孫である。友人からみた自分は友人であり、教授からみた時分は生徒である。このように自分という存在は考えれば考えるほど多岐にわたり、答えを出すことは出来ない。
水槽の脳という話がある。実は体というものは存在していなく、今自分が体験している世界は実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢ではないか。という仮説だ。このように考えれば、主観的にみた自分をある程度認識し、定義化できたとしても、それすらも間違っているということになる。そうなれば自分について哲学的に考えることは不可能である。しかし、水槽の脳も哲学者ヒラリー・パトナムが定式化したものであり、水槽の脳が完全に間違っているとは言えない。しかし正解はない。
以上のことを踏まえると、私は自分のことを哲学的に考えた時に答えはでない、と考える。もし自分で考えついた先に答えが見つかったとしても、正解がないため、その考えが合っているかということを考える必要がある。日々変わっていく自分について、これからも考えていきたいと思う。
果たしてこれは答えになったのか。。
どんな自分でも自分なんだから愛すべきなんだけど、他人に決めつけられるとちょっぴり嫌だよね(^^)
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